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メンタルヘルス 経営者向け 行動経済学

事業の停滞期に経営者が崩れることがある構造|ドーパミン報酬系と引退アスリート研究

事業の停滞期に経営者が崩れることがある構造|ドーパミン報酬系と引退アスリート研究 - コラム - 補助金さがすAI

事業を順調に成長させてきた経営者が、停滞期や売却の直後に、散財や依存的な行動を見せる事例がしばしば指摘される。意志の弱さや倫理の問題として片づけられがちだが、神経科学と引退アスリートを対象にした研究を重ねると、より構造的な説明が可能なように見える。本稿では、ドーパミン報酬系の研究と、NFL選手・プロサッカー選手を対象にした調査をもとに、共通する輪郭を整理することを試みたい。なお、ここで扱う議論は、複雑な現象を脳科学の一側面から読み解く試みにすぎず、すべてが報酬系で説明できるという主張ではない点を、はじめに断っておきたい。

1. ドーパミンは「報酬予測誤差」に反応するとされる

神経科学の分野では、ドーパミンは「快楽そのもの」ではなく、「予測と結果のずれ」に反応する信号物質として位置づけられている。1997年に Schultz らがサルの中脳ドーパミンニューロンの活動を記録した研究以降、多数の追試で確認されてきた知見である。

予想を上回る報酬 ドーパミンの発火が強まる
予想通りの報酬 発火は比較的乏しい
予想した報酬が来ない むしろ活動が抑制される

この性質は、不確実性を含む刺激――ギャンブル、新規事業、SNSの反応、対人的な承認のやり取り――が脳に対して相対的に強い駆動力を持ちうる理由として、しばしば引かれる。一方、結果が確実に予測できる状況では、ドーパミン系は比較的静かに保たれるとされている。

出典: Schultz, Dayan & Montague (1997) Science 275(5306)

2. 「単層報酬」と「多層報酬」は同じ回路を駆動するが、形が異なる

同じドーパミン系を駆動する刺激でも、刺激後に何が積み上がるか、という観点では性質に差があると考えられている。短期的かつ単発で完結し、その後の自己や環境に蓄積を残しにくいものを、便宜的に「単層」と呼ぶ。これに対し、刺激の後に信用、関係性、能力などが積み上がる構造を「多層」と呼ぶことができる。

報酬の種類 即時性 持続性 多層性
ギャンブル 高い 低い 単層
薬物 非常に高い 低い 単層
接客・歓待型の消費 高い 低い 単層
事業の成長 中程度 高い 多層
学習・創作 中程度 高い 多層

両者は同じ神経基盤を共有しているため、長期にわたり多層的な報酬を浴び続けてきた脳が、それを失った局面で、「単層で強度の高い刺激」に流れ込みやすくなる、という構造的な傾向が指摘されることがある。あくまで観察と理論からの推測であり、個別事例にそのまま当てはまるとは限らないものの、この後で取り上げる引退アスリートの研究と整合する見方であると考えられる。

3. NFL選手の自己破産率は、収入規模ではなく構造を映していると論じられる

引退後の経済的な崩壊について、しばしば引かれる学術的なデータがある。Carlson、Kim、Lusardi、Camerer による NFL 選手の自己破産率研究である。1996〜2003 年にドラフトされた選手を追跡したもので、National Bureau of Economic Research の Working Paper として公開され、American Economic Review にも採録されている。

引退後 2 年 自己破産率 約 1.9%
引退後 12 年 同 約 15.7%
引退後 25 年(回帰外挿) 同 概ね 15〜40%(推定)

ライフサイクル仮説に従えば、年収が突出して高い時期に十分な貯蓄を行い、引退後の破産は稀になると予測される。しかし観測されたデータは、その予測とは整合しないと論じられている。

さらに注目に値するのは、自己破産率が、キャリア年収の総額や在籍年数とほとんど相関しないと報告されている点である。長く稼いだ選手も、短命に終わった選手も、ほぼ同程度の率で破産していく。ここから、問題は「収入の規模」ではなく、「引退後の報酬系と支出構造」のあり方にあると論じられている。意志や金銭管理能力の個人差というより、引退という節目自体が持つ構造的な側面が大きい、と読むこともできるだろう。

出典: Carlson, Kim, Lusardi, Camerer (2015) NBER WP w21085 / American Economic Review 105(5)

4. プロサッカー選手のうつ症状調査も、引退後の悪化を示唆している

メンタル面の指標についても、関連の調査が公開されている。プロサッカー選手の労働組合 FIFPro は、複数国にまたがる現役・元選手を対象にしたメンタルヘルス調査の結果を 2015 年に公表しており、Gouttebarge らによる学術論文としても発表されている。

現役選手 約 38% がうつまたは不安の症状を自覚
元選手 約 35% が同様の症状を自覚
参考:一般人口 うつの推定有病率は概ね 13〜17% 程度とされる

項目によっては、睡眠障害、精神的苦痛、アルコールの過剰摂取に関する指標が、現役よりも元選手の方で高く出ている、とも報告されている。負傷経験との関連も指摘されており、重度の負傷を 3 回以上経験した現役選手では、それ以外の選手に比べてメンタル面の問題を抱える割合が高い傾向が示されている。

競技人生の頂点での強い刺激と、引退後の生活との落差は、本人の主観的な意識を超えて、神経生理学的・心理学的な負荷として持ち越されている可能性がある、と考えるのが自然な読み方ではないかと思われる。

出典: Gouttebarge et al. (2015) Mental disorders in professional footballers / FIFPro Mental Health

5. ロベルト・エンケのケースが映すもの

個別の事例として、しばしば引かれるのが元ドイツ代表 GK のロベルト・エンケである。2009 年 11 月 10 日、32 歳で自死した。当時、翌年のワールドカップにおける代表正 GK の最有力候補と目されていた選手であった。

公開された情報や、夫人テレザ・エンケの後の発言、Ronald Reng の伝記『A Life Too Short』などによると、エンケは長期にわたりうつ症状を抱えていたとされる。「うつであることが公になれば、養女が引き離されるのではないか」という強い恐れを抱いていた、とも語られている。

外形的なパフォーマンスや成功と、本人の精神状態は、必ずしも単純な相関を示さない場合があることが、この事例からも示唆される。能力の頂点に近い位置にいた人物が、強度の高い領域にいるからこそ、別の側面で大きな負荷を抱えうる、という構造としても読みうるのではないか。

出典: Robert Enke — Wikipedia / Bundesliga.com 追悼記事

6. 経営者にとっての「引退」は、必ずしも引退の形をしていない

経営者の場合、明示的な「引退」を経験することはむしろ少ない。しかし、報酬系という観点で見ると、それと近い節目はいくつかありうる。

  • 主力事業の停滞、あるいは縮小局面
  • 売却または M&A によるイグジット
  • 後継者への引き継ぎ完了
  • 上場後のロックアップ満了と、コミット感の希薄化

こうした局面では、それまで日常的に供給されていた「事業由来の高強度の刺激」が、相対的に細くなる可能性がある。この時期に、報酬源が事業に一本化されていた場合、別のチャネルで強度を補おうとする圧力が、本人の自覚以前のレベルで働きうる、と考えることはできるだろう。

もっとも、これはあくまで観察と理論からの推測であり、明確な統計データに直接裏打ちされたものとは言いがたい。ただ、引退アスリートに関する一連の研究と神経科学の知見を重ねると、構造としては類似した側面があると見ることができそうである。

7. 予防的な観点として語られるのは、報酬源の「複数化」である

関連分野の議論で、予防的な方向としてしばしば取り上げられるのが、報酬源の意図的な「複数化」である。短期刺激の禁欲という発想ではなく、多層的な報酬を平時から複数本走らせておく、という方向に近い。

  • 事業以外の多層的な活動 — 学習、運動、創作、家族、地域への関与など、結果が遅効的に積み上がる種類のもの
  • 結果に依存しすぎない満足回路 — 瞑想や習慣化された運動、読書のような、外部評価から距離を置ける営み
  • 承認の調達先の内部化 — 他者からの称賛だけでなく、自分の内的な指標で達成感を得る習慣
  • 事業構造のポートフォリオ化 — 単一プロダクトに集中しきらない事業設計

これらは禁欲やワークライフバランスというよりも、報酬の供給が将来細る局面に立たされたときのための、予備的な配線とも言える。順調なときには必要性が見えにくいが、見えにくい時期に仕込んでおくほど、後の効きが良いタイプの設計であるとも考えられる。

まとめ

事業を順調に成長させてきた経営者が、停滞期や売却の直後に崩れることがあるのは、本人の倫理や意志の問題に還元しきれない、構造的な側面を持っているように見える。報酬系が事業に一本化されていた場合、節目で「単層で強度の高い刺激」に流れ込む傾向が生じやすい、という見方は、引退アスリートに関する一連の研究とも整合的である。

事業が順調なときほど、報酬系の偏りは見えにくい。順調なうちに、別軸の報酬源を仕込んでおくことには、神経科学的な観点から見ても、一定の合理性があると言えそうである。

本稿は、複雑な現象を脳科学と引退アスリート研究の枠組みで読み解く一つの試みにすぎず、すべてが報酬系で説明できるという主張ではないことを、最後に重ねて断っておきたい。

この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

X-HACK Inc. 代表取締役。システムコンサルタントとして中小企業の基幹システム構築・業務設計に携わったのち、自ら起業。小規模ビジネスの立ち上げから黒字化までを複数回経験し、採用・資金調達・補助金申請の実務にも精通。「補助金さがすAI」の開発・運営を通じて、経営者が本当に必要とする情報を現場目線で発信しています。

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