本文へ移動

公開 · 更新

経営者向け 創業ストーリー

鳥井信治郎(サントリー創業者)|「やってみなはれ」周囲全員が反対した赤玉ポートワインとウイスキー国産化に賭けた男

鳥井信治郎(サントリー創業者)|「やってみなはれ」周囲全員が反対した赤玉ポートワインとウイスキー国産化に賭けた男

1923年(大正12年)、京都府乙訓郡山崎村。鳥井信治郎(とりい・しんじろう、当時44歳)は、湿潤な気候と良質な水に恵まれたこの地で、日本初の本格ウイスキー蒸溜所の建設に取りかかった。総工費は当時の金額で200万円——現在の貨幣価値に換算すれば数十億円規模の途方もない投資だ。社内の役員も、銀行家も、業界関係者も、誰一人として賛成しなかった。「日本人の口にウイスキーは合わない」「英国に何百年も歴史があるものに、後発の日本が勝てるはずがない」——そんな声を浴び続けた。それでも鳥井は譲らなかった。「やってみなはれ」——大阪商人らしいこの一言で、彼は周囲の反対を押し切った。それは16年前、「赤玉ポートワイン」を発売したときと同じ光景だった。現在、鳥井が創業したサントリーホールディングスの売上は3兆円超。「やってみなはれ」は今もサントリーの社訓として、社員一人ひとりに引き継がれている。

1879年大阪生まれ、13歳で薬種問屋へ丁稚奉公——商売の基礎を仕込まれた少年時代

鳥井信治郎は1879年(明治12年)1月30日、大阪市東区釣鐘町(現・中央区)で生まれた。父は両替商を営んでいた鳥井忠兵衛、母はこまつ。男ばかり4人兄弟の次男として生まれた信治郎は、幼い頃から町人の街・大阪の空気の中で育った。

大阪商業学校(現・大阪市立大阪ビジネスフロンティア高校)の前身にあたる商業夜学校で学んだ信治郎は、13歳のとき、薬種問屋「小西儀助商店」(現・小西酒造とは別系統)へ丁稚奉公に入った。明治の大阪商家における丁稚奉公は、商売の基礎を叩き込まれる修業の場だ。早朝の掃除から始まり、商品の運搬、得意先回り、帳簿付け——あらゆる雑用をこなしながら、商売の呼吸を身につけていく。

小西儀助商店では、薬種だけでなく、洋酒や香辛料、絵具などの輸入品も扱っていた。当時の日本にとって、洋酒は珍しく高価な「ハイカラ」な商品だった。信治郎はここで、輸入されたワインやウイスキー、ブランデーといった洋酒に初めて触れる。「いつかこういう洋酒を、日本人の手で作ってみたい」——少年の心に芽生えた小さな夢が、後の人生を導く北極星となった。

その後、信治郎は染料問屋「小西勘之助商店」にも勤め、洋酒の調合や香料の扱いについて知識を深めた。商家の丁稚としての年季を終えた信治郎は、20歳で独立を決意する。それが1899年(明治32年)の出来事だ。

(出典: Wikipedia「鳥井信治郎」サントリー「会社情報・歴史」

1899年「鳥井商店」創業——20歳の青年がワイン輸入販売に賭ける

1899年(明治32年)2月1日、20歳の鳥井信治郎は大阪市西区釣鐘町に「鳥井商店」を開業した。資本金はわずか、店は小さな間口の一軒だ。事業内容はワインや洋酒の輸入販売。当時の日本ではまだほとんど普及していなかった洋酒に、信治郎は早くから商機を見出していた。

明治末期、文明開化の波で都市部の上流階級に少しずつ洋酒の文化が広がりつつあった。だが値段は庶民には手が届かないほど高く、味も日本人の嗜好に合わせて作られたものではない。スペインやポルトガルから輸入されるポートワインは、甘口で香りが強く、舶来品としては評価されていたが、「もっと日本人の味覚に合うワインを作れないか」と信治郎は考えるようになる。

創業から数年、輸入販売だけでは事業の拡大に限界があると気づいた信治郎は、自家製造に踏み出した。ぶどう酒の試作を繰り返し、独自の調合で日本人の味覚に合う甘口ワインを作り上げる。何度も失敗し、何度も配合を変え、ようやく満足のいくものができたのが1907年(明治40年)——創業からじつに8年もの試行錯誤の末だった。

こうして誕生したのが、後にロングセラーとなる「赤玉ポートワイン」だ。ラベルには、信治郎自身が考案した赤い丸——日の丸をモチーフにした「赤玉」が大きく描かれた。鮮烈な印象を残すデザインは、後にサントリーの社名(太陽=サン+鳥井=トリー)にも引き継がれることになる。

(出典: サントリー「会社情報・歴史」Wikipedia「サントリー」

1907年「赤玉ポートワイン」——周囲全員が反対した中で生まれた大ヒット商品

赤玉ポートワインの発売を決めた1907年、信治郎の周囲は反対一色だった。「日本人がワインなんて飲むはずがない」「酒税が高くて売れない」「失敗したら店が傾く」——番頭も、家族も、取引先も、誰もが信治郎を止めようとした。

「やってみなはれ。やらなわからしまへんで」

—— 周囲の反対に対する鳥井信治郎の口癖(明治末期)

大阪弁の「やってみなはれ」は、「やってみなさい」の意味だ。続く「やらなわからしまへんで(やらなければわかりませんよ)」が、信治郎の経営哲学の核心を表している。机上の議論で「無理だ」「できない」と決めつけず、まず実行してみる——その結果を見て初めて成否を判断する。これが信治郎流の決断のスタイルだった。

赤玉ポートワインは、発売後しばらくはなかなか売れなかった。だが信治郎は諦めなかった。大胆な広告戦略で勝負に出る。1922年(大正11年)、信治郎は当時の常識を破る斬新な広告を打った。「赤玉楽劇団」の松島栄美子をモデルにしたセミヌード(背中見せ)のポスターを制作したのだ。これは日本初の女性ヌードを使ったポスター広告とも言われ、社会に大きな衝撃を与えた。

当時の商業デザインとしては前代未聞の表現だったが、結果は劇的だった。「赤玉ポートワイン」の名は全国に知れ渡り、売上は急伸する。国内ワイン市場の60%を占めるトップシェア商品となり、信治郎が興した「寿屋洋酒店」(1921年に屋号変更、後のサントリー)の財務基盤を確固たるものにした。「やってみなはれ」の最初の大勝負は、見事に成功した。

(出典: サントリー「会社情報・歴史」Wikipedia「鳥井信治郎」

1923年「山崎蒸溜所」建設——200万円を投じた日本初のウイスキー国産化

赤玉ポートワインの成功で経営基盤を固めた信治郎は、若い頃からの夢だった「本格ウイスキーの国産化」へと舵を切る。1923年(大正12年)、信治郎は京都府乙訓郡山崎村(現・大山崎町)に日本初の本格ウイスキー蒸溜所「山崎蒸溜所」の建設に着手した。総工費は約200万円。当時の貨幣価値で、現代の数十億円規模の投資だ。

このときも周囲は反対一色だった。社内の役員はもちろん、銀行関係者、業界関係者まで「無謀だ」と口を揃えた。理由は明白だ。当時の世界のウイスキー市場はスコットランドと英国が独占しており、何百年もの伝統と熟成技術を持つ。後発の日本が同じ土俵で勝負して勝てる保証は何一つない。しかも蒸溜から出荷までに最低でも5年以上の熟成期間が必要で、その間まったく売上が立たない。資金繰りを考えれば、無謀以外の何物でもなかった。

しかし信治郎は譲らなかった。山崎の地を選んだ理由は明確だ。木津川・宇治川・桂川の3つの川が合流するこの地は、湿潤な気候、霧の発生、軟水の良質な水脈——ウイスキー作りに必要な自然条件がすべて揃っていた。さらに信治郎は、本場スコットランドで本格的なウイスキー製造を学んだ竹鶴政孝(後のニッカウヰスキー創業者)を工場長として迎え入れる破格の人事を断行した。

1929年(昭和4年)、ついに国産ウイスキー第一号「白札」(後のサントリーホワイト)が発売された。だが商業的には惨敗だった。日本人の嗜好に合わせきれず、独特の燻製臭が「焦げ臭い」と酷評され、ほとんど売れない。信治郎は失意のどん底に突き落とされた。

だが信治郎は諦めなかった。製造工程を見直し、配合を変え、味の調整を重ねる。1937年(昭和12年)、満を持して「角瓶」を発売した。今度は日本人の味覚に合うまろやかさを実現し、大ヒット。山崎蒸溜所建設から14年——「やってみなはれ」の二つ目の大勝負も、ついに実を結んだ。

(出典: サントリー「山崎蒸溜所について」Wikipedia「山崎蒸溜所」

「トリスを飲んでハワイへ行こう」——戦後の高度成長と「やってみなはれ」の継承

戦後、信治郎は息子・佐治敬三(さじ・けいぞう、後のサントリー2代目社長)にバトンを渡す準備を始めた。佐治敬三は信治郎の次男として生まれ、大阪帝国大学(現・大阪大学)理学部化学科で学んだ理系経営者だ。父・信治郎の「やってみなはれ」の精神を、技術と科学の裏付けで一段と強化した。

1961年(昭和36年)、当時のサントリーは画期的な広告キャンペーンを打ち出した。「トリスを飲んでハワイへ行こう」——大衆向け廉価ウイスキー「トリス」の販促キャンペーンで、抽選で当選した顧客に当時はまだ夢のような海外旅行先だったハワイ旅行をプレゼントする企画だ。当時の日本人にとってハワイ旅行は文字通り「夢」の象徴。このキャンペーンは社会現象となり、トリスは大衆ウイスキーの代名詞となった。

信治郎は1962年(昭和37年)2月20日、83歳で生涯を閉じた。会社は息子の佐治敬三が継承し、ビール事業(モルツ)、清涼飲料(缶コーヒーBOSS、伊右衛門、サントリー天然水)、健康食品、外食事業——次々と新領域に進出した。いずれも当初は「無謀だ」「うまくいかない」と反対される事業だったが、佐治敬三は父の口癖を引き継ぎ、「やってみなはれ」と社員を後押しした。

主な出来事
1899年 鳥井信治郎、20歳で大阪・西区釣鐘町に「鳥井商店」を創業
1907年 「赤玉ポートワイン」発売(周囲全員反対→大ヒット)
1921年 屋号を「寿屋洋酒店」に変更、株式会社化
1923年 京都・山崎で日本初のウイスキー蒸溜所「山崎蒸溜所」建設開始
1929年 国産ウイスキー第一号「白札」発売(後のサントリーホワイト)
1937年 「角瓶」発売、日本人の味覚に合うウイスキーとして大ヒット
1961年 「トリスを飲んでハワイへ行こう」キャンペーン(社会現象に)
1962年 鳥井信治郎死去(83歳)、息子・佐治敬三が2代目社長に
1963年 社名を「サントリー株式会社」に変更、ビール事業に参入
2024年12月期 サントリーホールディングス売上3兆2,000億円超

「やってみなはれ。みとくんなはれ(やってみなさい。見ていてくださいよ)」——信治郎が遺したこの言葉は、現在もサントリーグループの社訓として生き続けている。新規事業の立ち上げ、海外M&A(2014年の米ビーム社1兆6,000億円買収など)、未踏領域への挑戦——いずれも「やってみなはれ」精神の延長線上にある。創業から125年以上、3兆円企業となった今も、その魂は色褪せていない。

(出典: サントリー「企業理念」サントリー公式サイト

まとめ

鳥井信治郎の生涯は、「やってみなはれ」の精神を貫いた83年だった。1879年に大阪で生まれ、13歳で薬種問屋へ丁稚奉公。20歳で鳥井商店を創業し、1907年に「赤玉ポートワイン」を発売して周囲の反対を実績で覆した。1923年には日本初のウイスキー蒸溜所を山崎に建設し、1929年の白札の失敗から1937年の角瓶ヒットまで、14年にわたる改善を諦めずに続けた。1961年「トリスを飲んでハワイへ行こう」キャンペーンが社会現象となり、信治郎は1962年に83歳で逝去。息子・佐治敬三が継承し、現在のサントリーホールディングスは売上3兆円超の企業グループへと成長した。

信治郎が貫いた問いはシンプルだ。「やる前から無理と決めつけていないか?」——机上の議論で結論を出すより、まず手を動かして試す。失敗したら改善し、また試す。短期の損益にとらわれず、5年後・10年後の事業価値を信じる。この姿勢が、無数の「無理だ」を「やれた」に変えてきた。

参考資料

この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

あわせて読みたい

コラム ·

ChatGPTを全社導入しても「AI導入」は終わっていない――ツール配布とAIネイティブな組織の間にある段差

帝国データバンクの2026年3月調査では生成AIを活用する企業の86.7%が「効果あり」と答えましたが、用途の最多は文章の作成・要約でした。PwCの6カ国調査では日本の推進度は米国並みの87%なのに、期待を大きく上回る効果は9%(米国38%)。McKinseyやHBRのデータもあわせ、ChatGPTやClaudeの契約で「AI導入が進んだ」と感じてしまう理由と、業務・役割・確認の仕組みをAI前提で組み直す「AIネイティブな組織」への段差を整理し、電話窓口を例に最初の一歩を考えます。

コラム ·

中小企業のシステム導入、最多の失敗は「遅延」ではなく「後出しコスト」――3つの原因は発注側の“空席”に行き着く

btobeeが2026年7月に公表した中小企業経営者・役員300人の調査では、システム導入企業の53.2%が失敗やトラブルを経験し、最多は後出しコストによる予算超過(40.0%)、遅延は33.3%でした。JUASの規模別データや海外の大規模IT調査と比べながら、なぜ中小企業では「遅れる」より「膨らむ」のか、人材不足・目的の共有不足・PM不在という3つの原因に共通する欠落は何かを整理し、契約前に決めておくべきことをまとめます。

コラム ·

刃物を渡されたロボットは、危険な指示にどれだけ「ノー」と言えるか──最新ベンチマークが示した現実

独立評価団体Robocurveが2026年9月に公開したベンチマーク「RoboHarm」によれば、OpenAIのGPT-6 Astraは危険な指示100回中97回でロボットアームを動かし60回完遂、安全上の拒否はわずか2回でした。AnthropicのClaude Fable 5.1は刺傷タスクは全拒否した一方、他4タスクは一度も拒否せず34回完遂。生データまで遡って検証し、ロボット・AIエージェント導入時に経営者が確認すべき安全性のポイントを整理します。