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破天荒列伝 経営者向け

井脇ノブ子|「人殺しの家」の末っ子が国会議員になるまで——6回落ちても諦めなかった女

井脇ノブ子|「人殺しの家」の末っ子が国会議員になるまで——6回落ちても諦めなかった女 - コラム - 補助金さがすAI

大分県の漁村。電気も水道も通らない家で、9人きょうだいの末っ子として生まれた少女は、小学4年生のとき「人殺しの妹」と呼ばれるようになりました。次兄の冤罪事件です。毎日海に潜ってサザエを採り、家族の裁判費用を稼ぎながら、彼女は誓いました——「こんなときこそ助けてくれるのが国会議員じゃないのか。なら、自分がなろう」。中学2年生の決意でした。それから半世紀、6回の落選を経て59歳で初当選。80歳の今も年金月10万円で暮らしながら夢を追い続ける井脇ノブ子の半生をたどります。

電報が変えた少女の人生

井脇ノブ子は1946年2月11日、大分県南海部郡東中浦村梶寄(現・佐伯市鶴見梶寄浦)に生まれました。大分県南東部の海沿いにある小さな漁村です。実家は半農半漁。9人きょうだいの末っ子として、電気も水道も通らない貧しい暮らしのなかで育ちました。

それでも、井脇さんは明るくたくましい子どもだったといいます。しかし小学校4年生のとき、1通の電報が人生を一変させました。

「次兄が出稼ぎに出ていた静岡で人を殺したから出頭せよ、という電報だった。両親は腰を抜かしてへたり込んだよ」

— 井脇ノブ子

次兄は他人のケンカの仲裁に入ったところ、急所を蹴られて意識を失いました。気がついたときには死人が出ていた。記憶がない以上、正直者の次兄は裁判で「やったか、やってないかわからない」と言い続けるしかありませんでした。

一家は「人殺しの家」と呼ばれ、井脇さんは「人殺しの妹」と言われてランドセルをぶつけられる日々。姉は結婚話が破談になりました。

海に潜る少女——5年に及んだ裁判

両親は次兄の無実を証明するために駆けずり回りました。井脇さんも両親と一緒に村中を回り、裁判費用を借りて歩きました。しかし裁判は5年に及びます。

疲弊しきった両親が、幼い井脇さんとともに命を断とうとしたこともあったといいます。

「私は毎日、登校前と下校後、海に潜ってサザエやテングサを採って生活費を稼いでいたんだけど、追いつかない。こんな苦しいときこそ救ってくれるのが国会議員じゃないのか、なんで助けてくれないのか、と思ったんだよ」

— 井脇ノブ子

そして中学2年のとき、転機が訪れます。真犯人がその父親に連れられて出頭し、次兄は無罪放免となりました。5年間の地獄が終わった瞬間、井脇さんの胸にあったのは安堵だけではありません。

「将来は人のために尽くす立派な国会議員になろう、と決めたんだ」

— 井脇ノブ子(中学2年の決意)

布団一式で村を出る——水泳が切り拓いた道

「苦労してこそ立派な人になる」という父の教えに従い、井脇さんは中学卒業後に村を出て自活の道を選びました。

当時、村の同級生の多くは岐阜の紡績工場に就職するのが一般的でした。しかし毎日海に潜り続けたおかげで水泳が得意になっていた井脇さんは、佐伯学園佐伯高等学校(現・日本文理大学附属高校)に水泳の実力で進学を決めます。

「でも、家にはお金がないから、生活費も授業料も自分で稼いだ。家を出るとき、両親が持たせてくれたのは布団一式だけ。その布団は今も使っているよ(笑)」

— 井脇ノブ子

高校では100メートル自由形で国体選手として活躍。卒業後は別府大学に水泳推薦で進学しました。大学では選手兼コーチ兼マネージャーを務め、後に複数の大学で水泳部の監督・コーチを歴任。朝霞スイミングクラブでは延べ3,000人を指導しました。

水泳に打ち込みながらも政治家の夢を持ち続けた井脇さんは、拓殖大学大学院で国際政治学を学びます。

26歳で初出馬——6回落ちて、それでも

1972年12月、拓殖大学大学院在学中の26歳。被選挙権を得たばかりの井脇さんは、大分1区から無所属で衆議院議員選挙に出馬しました。得票は8,288票、7位。結果は落選です。

しかし、ここで諦める人ではありません。「いつか見とけ」と東京に戻り、大学院を修了。その後は子どもたちの教育に打ち込みながら、選挙への挑戦を続けました。

選挙 選挙区 結果
1972年衆院選旧大分1区落選
1995年参院選和歌山県選挙区次点
1996年衆院選静岡3区次点
1998年参院選静岡県選挙区落選
2000年衆院選比例東海落選
2001年参院選比例区落選
2005年衆院選大阪11区初当選(比例復活)

初出馬から33年。1972年の26歳から2005年の59歳まで、6回の落選を重ねての初当選でした。2005年の郵政選挙で自民党公認として大阪11区から出馬し、小選挙区では敗れたものの比例近畿ブロックで復活当選。「小泉チルドレン」の一人として、ついに国会議事堂の門をくぐります。

キャッチフレーズは「やる気! 元気! イワキ!」。ピンク色のスーツをトレードマークに、持ち前のバイタリティで国会活動に取り組みました。

出典: Wikipedia「井脇ノブ子」 / 国会議員白書「井脇ノブ子 選挙結果」

「少年の船」35年の航海——5万人の子どもたちへ

選挙に落ちるたびに、井脇さんは教育の現場に戻りました。政治家を目指しながらも、35年間ひたすら続けたのが「少年の船」です。

1971年7月に第1回を実施。子どもたちを船に乗せ、被爆地・広島や沖縄、さらに韓国・中国へと連れていき、船上での共同生活と現地での平和学習を通じて「忍耐力」と「協調性」を育てるプログラムでした。

「船は借りるにも買うにも、ものすごいお金がかかる。寄付を募ってイチから始めて、結局35年間続けたよ」

— 井脇ノブ子

財団法人少年の船協会を設立し、理事長と団長を兼任。直接教えた子どもは5万人を超えます。2019年に急性胆嚢炎で倒れたとき、病室に見舞いに来た元教え子は200人以上。35年にわたる教育が、どれほど多くの人に影響を与えたかを物語る数字です。

教育活動は国内にとどまりません。1992年にはタイのワットサケオ身障者施設内に井脇ノブ子記念病院井脇教育館(小学校)を建設。2001年には日中青少年友好の船を企画し、天津・北京を訪問しています。

28歳のとき、結婚を考えた時期もありました。しかし母親に打ち明けると、こう返されたといいます。

「結婚して何人かの子供を育てるより、何千人もの子供たちを自分の子と思って愛情をそそぎなさい」

— 井脇さんの母

この言葉を受け、井脇さんは生涯独身を貫きました。

出典: 日刊ゲンダイ「小泉チルドレン 井脇ノブ子さんの今」 / NEWSポストセブン「井脇ノブ子さん、母からの『まさかの言葉』」

80歳、まだ夢の途中

2009年と2012年の衆院選で落選し、2014年に政界を引退。しかし井脇さんの人生に「引退」という言葉は似合いません。

2019年10月、東京タワーでの講演直後に倒れました。急性胆嚢炎。直径1センチ以上の胆石が3個詰まり、敗血症も併発。血圧は25mmHgまで低下し、5日間意識不明。3回の開腹手術を受けました。郵政選挙時に88キロあった体重は、一時39キロにまで落ちています。

それでも回復した井脇さんは、現在80歳。元秘書のマンションでシェアハウス生活を送りながら、月約10万円の国民年金で暮らしています。議員年金は1期4年弱では受給資格がありません。

  • 病院船構想 — 災害対応用の多目的船の建造を推進。試算では約300億円
  • 人材育成塾 — 「井脇塾」の立ち上げを計画し、次世代の教育に意欲
  • モンゴル国勲一等教育賞 — 2025年に受勲。国際的な教育活動が認められた
  • 水彩画 — 新美術協会の理事として創作活動にも取り組む

年金月10万円。シェアハウス暮らし。それでも「やる気! 元気! イワキ!」は健在です。

出典: 日刊ゲンダイ「小泉チルドレン 井脇ノブ子さんの今」 / Wikipedia「井脇ノブ子」

まとめ

電気も水道もない漁村に生まれ、「人殺しの妹」と呼ばれ、両親に命を断たれかけた少女が、海に潜って家計を支え、水泳で村を出て、35年間5万人の子どもを育て、6回の落選を乗り越えて国会議員になりました。

井脇ノブ子の半生は、きれいな成功物語ではありません。冤罪事件、極貧、心中未遂、33年の落選歴、生涯独身、急性胆嚢炎——壮絶のひと言です。それでも80歳の今、月10万円の年金暮らしで「病院船を造りたい」と語る。この人の「やる気」には、終着駅がないのかもしれません。

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この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

X-HACK Inc. 代表取締役。システムコンサルタントとして中小企業の基幹システム構築・業務設計に携わったのち、自ら起業。小規模ビジネスの立ち上げから黒字化までを複数回経験し、採用・資金調達・補助金申請の実務にも精通。「補助金さがすAI」の開発・運営を通じて、経営者が本当に必要とする情報を現場目線で発信しています。

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