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経営者向け 創業ストーリー

ジョン・ポール・デジョリア(ポール・ミッチェル)|資本金700ドル・車中生活で身なりを整え、サロンに飛び込み営業した男の異常な情熱

ジョン・ポール・デジョリア(ポール・ミッチェル)|資本金700ドル・車中生活で身なりを整え、サロンに飛び込み営業した男の異常な情熱 - コラム - 補助金さがすAI

1980年、米ロサンゼルス。1台の古いロールスロイスが、ある男の自宅であり、オフィスであり、移動式倉庫だった。男の名はジョン・ポール・デジョリア(John Paul DeJoria, 1944〜)。当時36歳、養護施設で育ち、百科事典の訪問販売を経て、ヘアケア大手レッドケンを解雇された彼は、ヘアスタイリストのポール・ミッチェルと共に資本金わずか700ドル(半分は母親からの借金)で「ジョン・ポール・ミッチェル・システムズ(John Paul Mitchell Systems)」を共同創業した。住む家はない。それでもデジョリアは毎朝、車内でスーツに着替え、髪を整え、サロンのドアを一軒ずつ叩いた。「断られても次へ」——百科事典の訪問販売で叩き込まれた信念だけが武器だった。創業3年目で売上は100万ドルを突破。さらに1989年にはパトロン・テキーラ(Patrón Spirits)を共同創業し、世界一のウルトラプレミアム・テキーラへと育て、2018年にバカルディへ約51億ドルで売却した。車中生活の元ホームレスが、二つの世界的ブランドを生み出した「異常な情熱」を辿る。

1. 1944年生まれ、養護施設と新聞売りで鍛えられた少年時代

ジョン・ポール・ジョーンズ・デジョリアは、1944年4月13日、ロサンゼルスのエコーパーク地区で生まれた。父はイタリア系、母はギリシャ系の移民で、いずれも一からアメリカで生活を築こうとした世代だ。だが彼が2歳になる前に両親は離婚し、シングルマザーとなった母は二人の息子を養いきれず、デジョリアは兄と共に東ロサンゼルスの養護施設(フォスター・ホーム)に預けられた。

9歳の時、デジョリアはすでに「働く子ども」だった。兄と一緒にクリスマスカードや新聞を売り歩き、家計を支えるためにストリートに立った。アメリカの底辺労働を子どものうちから体験したこの時期、彼は二つの真実を学ぶ。一つは「断られるのは普通だ」ということ。もう一つは「諦めずに次の家のドアを叩く者が、最後に売る」ということだ。後に百科事典の訪問販売、そしてサロンへの飛び込み営業で爆発する彼の営業哲学の原点は、9歳の少年が街角で経験した「拒絶」の連続にあった。

ジョン・マーシャル高校を卒業した後、デジョリアは米国海軍に入り、空母USSホーネットで2年間勤務した。海軍生活で身についた規律——朝決まった時間に起き、髪を整え、身なりを清潔に保つ習慣は、後に「住む家がなくても、サロンの前ではプロフェッショナルに見える」という生き方の土台となる。

除隊後の彼は職を転々とする。清掃員、保険外交員、そして百科事典の訪問販売員を5年間続けた。一軒一軒のドアをノックし、何度断られても次の家へ進む——この5年間こそ、デジョリアの「飛び込み営業」の原型を作った修行期間だった。後にタイム社の販売部長にまで昇進するが、彼の心はサラリーマンには収まらなかった。

(出典: Wikipedia「John Paul DeJoria」Horatio Alger Association「John Paul DeJoria」

2. レッドケン解雇——ヘアケア業界での挫折が原点になる

1970年代、デジョリアは大手ヘアケアメーカーレッドケン・ラボラトリーズに営業職として入社した。百科事典で鍛えた「飛び込み営業」の腕は、サロン相手の業務用ヘアケア営業でも光った。だが、社内の方針対立から彼はあっけなく解雇される。家賃を払えず、車を住まいにする日々が始まる前触れだった。

業界に残るには、自分で会社を作るしかない——その瞬間、デジョリアは決意する。同時期に出会ったのが、スコットランド出身の若き天才ヘアスタイリストポール・ミッチェル(Paul Mitchell, 本名: Paul Mitchell Cremieux)だった。ポール・ミッチェルはサロン現場で「もっと髪のためになる製品があれば」という不満を抱いていた職人。デジョリアは「現場の困りごとを聞き、商品に翻訳して売り歩く」営業の達人。二人は完璧な補完関係を形作った。

計画は単純だった。「ワンステップで使えるシャンプー」と「洗い流さないコンディショナー(リーブイン・コンディショナー)」をプロのスタイリスト向けに作り、サロン専売で売る。当時のアメリカ市場には類似品が乏しく、現場のスタイリストたちの不満が直接、製品コンセプトに反映された画期的な発想だった。

だが二人には資金がなかった。共同で集めた創業資金はわずか700ドル。しかもその半分の350ドルは、デジョリアが母親から借りた金だった。約束していた投資家はドタキャン。約50万ドルの出資話は紙くずに変わった。それでも二人は1980年、登記を済ませた。「金がないなら、自分の足と口で売るしかない」——デジョリアの本当の戦いが始まる。

(出典: Wikipedia「John Paul DeJoria」Entrepreneur「Started a Business with Just $700, Now He's a Billionaire」

3. 20年落ちロールスロイスを「家」にして、サロンへ飛び込み営業

700ドルの大半は商品の試作と最初のラベル印刷に消えた。家賃を払う金は残らない。デジョリアは自宅から退去し、生活の拠点を20年落ちのロールスロイスに移した。皮肉なことに、その車は彼が以前わずかな成功を収めた時期に買った中古車だった。「ホームレスにロールスロイス」——絵に描いたようなコントラストだが、本人にとっては「家がないがゆえに残った唯一の財産」だった。

「家はなかったが、車で寝て、朝起きてスーツに着替え、サロンを訪ねた。最初の2週間は、その車が私の家でありオフィスだった。」

—— ジョン・ポール・デジョリア(後年のインタビューより)

毎朝、デジョリアは車のバックミラーで髪を整え、皺の寄ったジャケットの埃を払い、サロンのドアを叩いた。9割は門前払い。「資金もない無名の二人組のシャンプーなど取り扱えない」と冷たく断られる。だが、5年間の百科事典訪問販売で身につけた営業の鉄則——「断られてもニコッと笑い、次のドアを叩く」が彼を支えた。10軒目で5分聞いてもらえ、30軒目でようやく1軒に置いてもらえる。それでも「その1軒のサロンが、次の100軒へ広がる種になる」と信じていた。

商品が画期的だったことも追い風になった。1本でシャンプーが完結する「ワンステップ・シャンプー」と、洗い流さずに使えるリーブイン・コンディショナーは、忙しいサロンの現場で「時短になる」「お客の髪が手早くまとまる」と評判になった。営業の足で広がった採用は、口コミで指数関数的に増えていく。

とはいえ最初の2年間は赤字続きだった。資金繰りは綱渡り、デジョリアは時に車中でカップ麺をかじりながら翌日の営業ルートを練った。それでも撤退はしなかった。なぜなら、彼にはもう撤退できる「家」がなかったからだ——文字通り、前進するしか選択肢がなかった。

(出典: CNBC「John Paul DeJoria went from homeless to billionaire by following 3 simple rules」Celebrity Net Worth「From Homeless to Making Billions from Shampoo and Tequila」

4. 創業3年目で売上100万ドル突破——サロン専売モデルが世界へ

赤字続きだったジョン・ポール・ミッチェル・システムズに転機が訪れたのは、創業3年目の1982年頃だった。サロンでの採用件数が一定のラインを越え、口コミと再注文が雪だるま式に増え始めた。年商は100万ドルを突破。デジョリアは車中生活を脱し、ようやくアパートを借りる金を手にした。

同社が貫いた戦略は明快だった。「サロン専売(プロフェッショナル・オンリー)」である。スーパーマーケットやドラッグストアでは売らず、訓練を受けたスタイリストの手を通じてのみ販売する。これによって製品のブランド価値は守られ、サロン側は「うちでしか買えない」というロイヤリティを獲得した。デジョリア自身が訪問販売員出身であり、現場の関係者を大切にする商売の重みを誰よりも知っていたからこそ、この方針は徹底された。

商品ラインも拡充されていく。ティーツリーオイル配合のシャンプー、ストレートヘア用、カラーケア用、ボリュームアップ用——プロが現場で求めるあらゆるニーズに細かく応えるラインナップが整備された。営業の足とサロン現場の声で作られた製品群は、メガブランドの広告攻勢に頼らず、口コミだけで全米に広がっていった。

1980年代後半から1990年代にかけて、ジョン・ポール・ミッチェル・システムズは急成長を遂げる。現在、同社製品は世界約90,000のサロンで取り扱われ、82カ国以上で販売されている。日本にも輸入され、美容師のプロ用ブランドとして定着している。サロン専売という制約を逆に「希少性」と「専門性」のブランド資産に変えた経営判断が、生き残りどころか業界の世界的プレイヤーへと同社を押し上げた。

(出典: Paul Mitchell 公式「Our Leaders」Wikipedia「John Paul DeJoria」

5. 1989年パトロン・テキーラ創業——2018年バカルディへ約51億ドルで売却

ヘアケアで成功を収めたデジョリアは、別の市場でも同じ「飛び込み営業×品質第一」の手法を試した。それがテキーラだった。1989年、彼は友人のマーティン・クロウリーと共にパトロン・スピリッツ・カンパニー(Patrón Spirits Company)を共同創業する。狙ったのは、当時アメリカで「安酒」のイメージしかなかったテキーラを、ウルトラプレミアム(超高級)カテゴリへと引き上げることだった。

パトロンは100%ブルーアガベ、メキシコ・ハリスコ州での丁寧な手作り、職人による吹きガラス瓶——徹底した「品質第一」を掲げ、当時の市場価格の数倍で売り出した。常識外れの価格設定だったが、デジョリアの営業哲学は変わらない。「本当に良いものを、ターゲット顧客の目の前まで運んでいけば、必ず売れる」。レストランやバーを一軒一軒回り、バーテンダーに直接試飲させる。プロが認めれば客に推奨される——サロン専売モデルの応用だった。

パトロンは年々シェアを伸ばし、ハリウッドのセレブが愛飲する高級テキーラの代名詞となった。そして2018年、デジョリアらはパトロンをバカルディ社(Bacardi)に約51億ドルで売却した。700ドルの車中生活から始まったキャリアの「もう一つの果実」が、約51億ドルという数字で結実した瞬間だった。

主な出来事
1944年 ロサンゼルスで誕生(伊・希移民の家庭)
1946年頃 両親離婚、東ロサンゼルスの養護施設へ
1953年 9歳でクリスマスカード・新聞売りを始める
1960年代 米海軍に入隊、USSホーネットで勤務
1970年代 百科事典訪問販売を5年、レッドケンに入社後解雇
1980年 700ドルでJohn Paul Mitchell Systemsを共同創業、車中生活開始
1982年頃 創業3年目で年商100万ドル突破
1989年 パトロン・スピリッツ・カンパニーを共同創業
現在 Paul Mitchell製品は世界90,000サロン・82カ国で展開
2018年 パトロンをバカルディ社へ約51億ドルで売却

デジョリアは現在も慈善活動家として知られ、ホームレス支援や動物保護、太陽光発電の途上国普及に多額の寄付を続けている。「かつての自分」を忘れない経営者として、米国の「ホレイショ・アルジャー協会」(逆境を乗り越えた成功者の表彰団体)の会員にも選ばれている。

(出典: Wikipedia「John Paul DeJoria」Horatio Alger Association「John Paul DeJoria」

6. ジョン・ポール・デジョリアの軌跡から学ぶ教訓と、中小企業が活用できる補助金

デジョリアの軌跡から中小企業経営者が学ぶべき教訓は、大きく三つある。第一に、「資本金の額より、現場の足の数」。700ドルの資本金で世界ブランドを作った彼の物語は、潤沢な投資マネーがなくても、顧客現場を一軒一軒回る覚悟さえあれば事業は立ち上がることを証明している。第二に、「身なりはタダで磨ける最大の資産」。車中生活でも髪を整えスーツを着る——プロフェッショナルな見た目を維持する規律は、信頼を「金で買わずに作る」最後の武器だ。第三に、「専門チャネルで深く刺す」というカラクリ。サロン専売も、バーテンダー経由のプレミアム・テキーラも、「現場のプロを介して顧客に届ける」という共通の仕組みで広がった。

これら三つの教訓を、現代日本の中小企業がどう補助金とつなげられるか——次の表に整理した。

デジョリアの経営判断 関連する補助金・支援制度
700ドルでJohn Paul Mitchell Systemsを共同創業 創業支援補助金・小規模事業者持続化補助金(創業枠)
ワンステップ・シャンプー、リーブイン・コンディショナーの新製品開発 ものづくり補助金(新製品・新サービス開発)
サロン専売モデル(プロ向け販路)の開拓 小規模事業者持続化補助金(販路開拓・チャネル開発)
ヘアケアからスピリッツ(パトロン)への新規事業展開 事業再構築補助金(新分野展開・新事業進出)
82カ国・世界90,000サロンへの海外展開 JAPANブランド育成支援等事業・海外展開補助金
飛び込み営業を支えるCRM・営業支援システムの導入 IT導入補助金(CRM・SFAツール導入)

特に注目すべきは、小規模事業者持続化補助金との親和性だ。デジョリアが車中生活で続けた「サロン1軒ずつ回る飛び込み営業」は、今の日本では「販路開拓」という言葉で言い換えられる。地元のプロフェッショナルや専門店を訪問し、自社商品を取り扱ってもらうための営業ツール、サンプル製作、展示会出展——これらは持続化補助金の典型的な対象経費だ。資金がなくても足で稼げばよかった1980年代と異なり、現代の中小企業は補助金を活用して「足の本数」を倍にできる。

また、デジョリアがヘアケアからテキーラへと事業領域を広げた経緯は、事業再構築補助金の哲学そのものだ。「自社の強み(営業力・ブランド構築力)を別の市場に持ち込み、新分野で成功する」——令和の日本でこの王道を歩む中小企業にとって、事業再構築補助金は最大の伴走者となる。700ドルの車中生活から世界ブランドを作った男の流儀を、補助金という追い風で再現することは決して不可能ではない。

(出典: 中小企業庁 ミラサポplus「人気の補助金」ものづくり補助金総合サイト

まとめ

ジョン・ポール・デジョリアの軌跡は、「資本金より情熱」を最も鮮やかに証明する事例だ。養護施設で育ち、9歳で新聞売り、百科事典訪問販売を5年、レッドケン解雇という挫折を経て、彼はわずか700ドル(うち半分は母親からの借金)でジョン・ポール・ミッチェル・システムズを共同創業した。住む家を失い、20年落ちのロールスロイスで2週間以上の車中生活を送りながら、毎朝スーツに着替えてサロンの飛び込み営業を続けた。創業3年目で年商100万ドル、現在は世界90,000サロン・82カ国で展開する世界ブランドへと育てた。さらに1989年に共同創業したパトロン・テキーラは、2018年にバカルディへ約51億ドルで売却される世界一のウルトラプレミアム・テキーラとなった。

デジョリアの「異常な情熱」の正体は、極めてシンプルだ。「断られても次のドアを叩く」「身なりだけはタダでも整えられる」「専門チャネルに深く刺す」——この三つの原則を、9歳の街頭販売から80歳近い現在まで変えなかった一貫性こそが、彼の本当の武器だった。

あなたの事業にも、足で開ける扉が必ずある。デジョリアが700ドルと1台の車で成し遂げたことを、現代の日本の中小企業経営者は補助金という追い風と共に挑戦できる。資本ではなく、現場と情熱で勝負する経営者にこそ、世界市場の扉は開く。

参考資料

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この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

X-HACK Inc. 代表取締役。システムコンサルタントとして中小企業の基幹システム構築・業務設計に携わったのち、自ら起業。小規模ビジネスの立ち上げから黒字化までを複数回経験し、採用・資金調達・補助金申請の実務にも精通。「補助金さがすAI」の開発・運営を通じて、経営者が本当に必要とする情報を現場目線で発信しています。

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