住野敏郎(オートバックス)|米国視察で確信→社員全員反対を押し切り「カー用品専門店」という業態を日本に創出
1974年11月23日、大阪府大東市に小さな店舗が開業した。カーオーディオ、タイヤ、オイル、バッテリー、カー用品を1か所でまとめて買える——当時の日本に存在しなかった業態「カー用品専門店」の誕生である。開業前、社員は口を揃えて言った。「カー用品だけで店は成り立たない」。それでも住野敏郎(すみの としろう、1920〜2001)はひるまなかった。アメリカで目にした光景への確信が、あらゆる反対を上回っていたからだ。その1号店が今日のオートバックスセブンへと育ち、国内1,156店舗・売上高2,298億円(2025年3月期)の「産業」になった。日本のカーライフを変えた男の物語だ。
1. 戦後の闇市から自動車部品卸へ——末廣商會の誕生
住野敏郎は1920年(大正9年)3月10日、大阪府大阪市天王寺区に生まれた。1938年に大阪城東商業高校を卒業し、日本自動車に入社。戦後の混乱が続く1947年2月、大阪市福島区の出入橋に「末廣商會」を創業した。事業の中身は自動車部品の卸売だった。
1947年という時代を想像してほしい。終戦からわずか2年。物資はまだ統制下に置かれ、街には闇市が残り、多くの商人が生き残りをかけてビジネスを模索していた。住野が選んだのは「自動車」だった。戦前に日本自動車に勤めていた経験から、この業界への眼差しは人一倍鋭かった。
翌1948年8月、末廣商會は株式会社に改組され、「株式会社富士商会」として再出発する。カー用品の卸売商として着実に基盤を固め、1960年には直営の小売店舗「冨士ドライブショップ」を開設した。さらに1958年、後にオートバックスセブンの前身となる「大豊産業株式会社」を設立する。住野がカー用品の世界で頭角を現し始めたのは、この頃だった。
1960年代の日本は「マイカー元年」(1966年)へ向かって走り始めていた。自動車保有台数は1965年の630万台が1967年には1,000万台を突破。「いつかマイカーを持ちたい」という夢が現実になる時代が、確実に近づいていた。
2. アメリカで見た光景——「これだ」という確信
住野敏郎に転機をもたらしたのは、アメリカへの視察旅行だった。1960〜70年代のアメリカには、自動車用品を専門に扱う大型小売店が数多く存在していた。タイヤ、オイル、バッテリー、カーオーディオ、アクセサリー——ドライバーが必要とするすべてのものを1か所で購入し、その場でメンテナンスまで受けられる。「カー用品専門店」という業態が、すでにアメリカでは完成されていた。
当時の日本はどうだったか。マイカーを手に入れたドライバーがタイヤを交換したければ、ガソリンスタンドか自動車ディーラーを頼るしかなかった。オーディオを取り付けたければ、専門の電気店に持ち込む必要があった。カー用品を一か所でまとめて揃えられる場所は、日本には存在しなかった。
「日本でもこれをやれば、必ず需要がある。今なら誰もやっていない」
— 住野敏郎が米国視察で得た確信(各種資料より)
住野には強力な追い風が見えていた。1966年を「マイカー元年」とした日本のモータリゼーションは、1970年代に向けて本格化しつつあった。自動車保有台数が増えれば、メンテナンスやカスタマイズの需要も比例して増える。カー用品専門店という業態は、日本では「まだ誰もやっていない市場」だったのだ。
しかし帰国後、住野の構想は社内で猛反発を受けた。カー用品の卸売と小売を長年手がけてきた社員たちの言葉は、どれも同じ内容だった。
3. 社員全員の反対——「カー用品だけで店は成り立たない」
「カー用品だけで店は成り立たない」——これが社員たちの共通認識だった。長年、卸売として自動車販売店やガソリンスタンドと取引してきた彼らにとって、カー用品を直接消費者に売る専門店という発想は荒唐無稽に映った。
- 【客単価の懸念】「タイヤやオイルをわざわざ専門店に買いに来るドライバーがいるのか。ガソリンスタンドで十分では」——カー用品は大型耐久財が多く、購買頻度が低いため、単品の来店動機が弱いと見られていた。
- 【業態の前例がない】「日本で成功した事例がどこにもない。アメリカと日本では道路事情も車文化も違う」——手本となる国内事例がゼロだったため、社員は説得材料を持てなかった。
- 【既存チャネルとの競合】「専門店を始めれば、これまでのガソリンスタンドや自動車販売店という取引先を敵に回すことになる」——卸売としての本業を傷つけるリスクを恐れる声も上がった。
それでも住野は動じなかった。彼の根拠はシンプルだった。「アメリカで成立しているビジネスが、マイカー普及が進む日本で成立しないはずがない」。数字でなく、自分の目で確かめた確信だった。
住野は社員の反対を押し切り、1974年11月23日、大阪府大東市に「オートバックス」第1号店(セブン東大阪店)を開業した。日本で初めての「カー用品総合専門店」の誕生だった。
| 業態 | タイヤ・オイル・バッテリー・カーオーディオ・アクセサリー・メンテナンスをワンストップで提供 |
|---|---|
| 場所 | 大阪府大東市(ロードサイド立地) |
| 特徴 | 日本初のカー用品ワンストップショップ。その場でピット作業まで対応 |
(出典: オートバックスセブン「沿革」)
4. フランチャイズで「業態」を「産業」へ——100号店まで5年
1号店の開業翌年、住野はすでに次の手を打っていた。1975年4月、北海道・函館中道店をフランチャイズ1号店として展開し、FC事業をスタートさせた。「自社だけで展開すれば時間がかかりすぎる。フランチャイズで業態ごと広げる」——この判断が、その後の爆発的な拡大を可能にした。
フランチャイズ展開は加速度的に進んだ。
| 1974年11月 | 1号店開業(大阪府大東市) |
|---|---|
| 1975年4月 | フランチャイズ事業開始(函館中道店) |
| 1979年8月 | 100号店達成(1号店から約5年) |
| 1980年3月 | 「株式会社オートバックスセブン」に商号変更 |
| 1983年7月 | 200号店達成 |
| 1985年11月 | 300号店達成 |
| 1987年7月 | 全都道府県への出店を達成 |
| 1989年3月 | 大阪証券取引所市場第二部に上場 |
| 1991年5月 | 台湾に海外第1号店オープン |
| 1993年 | 東京証券取引所上場・一部指定 |
| 1996年3月 | 500号店達成 |
1号店開業からわずか13年で全都道府県に出店、15年で東証上場。住野が「業態」として確立したカー用品専門店は、フランチャイズという手法で一気に全国展開し、一つの「産業」へと成長した。
商号変更の際に採用した「オートバックスセブン」の社名には、住野の経営哲学が凝縮されている。「AUTOBACS」はグループが扱う商品・サービスのイニシャルを組み合わせた造語で、「AUTO」はAppeal(アピール)、Unique(ユニーク)、Tire(タイヤ)、Oil(オイル)の4項目を、「BACS」はBattery(バッテリー)、Accessory(アクセサリー)、Car Electronics(カーエレクトロニクス)、Service(サービス)の4項目を示す。「Seven」は「タイヤ・オイル・バッテリー・アクセサリー・カーエレクトロニクス・サービスという6つのコア商品に続く7番目の商品を常に追い求める」という姿勢を意味した。
5. 「常に1番、No.1経営」——住野敏郎の経営哲学
住野敏郎の口癖として知られるのが、「常に1番、No.1経営」という言葉だ。カー用品専門店という業態を日本で初めて作り、フランチャイズで全国に広げ、上場企業にまで育てた男の経営思想を一言で表している。
「No.1」への執着は、単なるスローガンではなかった。住野が徹底したのは、「業界で最初に動いた者が最も有利な位置を得る」という原理だ。カー用品専門店が日本に存在しなかった時代に、誰よりも先に動いた。フランチャイズで急速に店舗を増やし、競合が追いかけてくる前に全都道府県をカバーした。上場して資金調達を加速し、スーパーオートバックスという大型業態にも先行して参入した。
「常に1番を目指す。2番、3番では意味がない」
— 住野敏郎の経営哲学(各種資料より)
住野はまた、フランチャイズオーナーを「加盟店」ではなく「パートナー」として扱った。FC展開の本質は、地域に根ざした事業者の力を借りて業態を広げることだ。地元のオーナーが地域の顧客をよく知り、オートバックスが提供する業態・仕入れ・ブランドを活用する。このパートナーシップの思想が、急速な全国展開を可能にした。
1994年6月、住野は社長職を息子の住野公一に譲り、会長に就任した。「自分が作った業態を次世代に渡す」——事業承継においても、住野は「業態」という無形の資産を最も大切にしていた。2001年3月9日、住野敏郎は心不全により大阪・吹田市の病院で死去した。享年80歳。創業からちょうど54年、1号店開業から27年後のことだった。
6. 業態が産業になった——1号店から50年の現在地
2024年9月、大阪市北区の出入橋ビル——住野敏郎の銅像が立つ創業の地——に「オートバックスミュージアム」が開設された。「住野敏郎記念館」と「オートバックス歴史・未来館」の2つで構成されたこのミュージアムは、グループ従業員やFC関係者に向けて創業者の精神を伝え続けている。
2025年3月末時点のオートバックスセブンは、グループ店舗数1,304店舗(国内1,156店舗、海外148店舗)を誇る。2025年3月期の売上高は2,298億円。社員が「成り立たない」と反対した1974年の1号店から、半世紀でこの規模になった。
| グループ店舗数 | 1,304店舗(国内1,156店舗・海外148店舗) |
|---|---|
| 連結売上高 | 2,298億円(2025年3月期) |
| 従業員数 | 5,201人(2025年3月31日現在) |
| 海外展開 | 台湾・タイ・フランス・中国など |
住野が日本に輸入した「カー用品専門店」という業態は、今やオートバックスだけにとどまらない。イエローハット、ジェームスなど複数のチェーンが同業態で展開しており、「カー用品専門店」は日本の流通業界に確固たる地位を占めている。住野一人の確信が、一つの「業態」を生み、その業態が一つの「産業」へと成長した。
(出典: オートバックスセブン「オートバックスミュージアムが創業の地 大阪に誕生」、gurafu.net「オートバックスセブン売上と財務・決算の業績推移」)
7. 中小企業経営者が学べること
住野敏郎の物語は「業態そのものを創出した男」の記録だ。彼が行ったのは、既存市場での競争ではない。「日本に存在しない業態を、アメリカで発見して輸入した」という、ゼロからイチを生み出す挑戦だった。その軌跡から中小企業経営者が学べることは多い。
-
「前例がない」は最大のビジネスチャンスかもしれない
社員の反対は「前例がない=リスク」という読み方だった。しかし住野の読み方は「前例がない=競合ゼロ」だった。日本にないビジネスモデルを海外で発見し、タイミングを読んで導入する——この発想転換は、今も有効だ。 -
「業態」を売る発想がフランチャイズを生む
住野は商品ではなく「業態」を売った。自社だけで展開すれば限界があるが、フランチャイズで業態を広げれば、地域のパートナーの力を借りて急速に全国をカバーできる。1号店から5年で100店舗——このスピードは、FC展開なしには実現しなかった。 -
「先に動いた者」が業態の代名詞になる
「カー用品専門店といえばオートバックス」——この認知は、1号店から継続して先行者であり続けた結果だ。市場が育つ前に規模を作り、競合が追いかけてきたときには既に「業界の定義者」になっていた。 -
名前にビジョンを込める
「オートバックスセブン」という社名は、6つのコア商品に続く「7番目を常に追い求める」姿勢を示している。会社の名前が戦略そのものになる——このセンスは、ブランディングが重要な現代でも参考になる。 -
事業承継は「業態」ごと渡す
住野は1994年に息子・住野公一に社長を譲った。承継したのは会社という法人だけでなく、「カー用品専門店というビジネスモデル」だった。後継者に何を渡すかを明確にした承継が、創業者亡き後もブランドを成長させ続けた。
「常に1番、No.1経営」——この哲学は、規模の大小に関係なく通用する。あなたの地域や業界で「まだ誰もやっていない」と感じるビジネスモデルがあるとすれば、それは住野が米国で感じた「確信」と同じものかもしれない。
8. 新業態・フランチャイズ展開に使える補助金
住野敏郎がアメリカで見た業態を日本に持ち込んだように、新しいビジネスモデルや業態開発には初期投資が伴う。国の補助金制度は、その挑戦を後押しするために存在する。
ものづくり補助金
| 補助上限額 | 750万円〜4,000万円(グローバル枠) |
|---|---|
| 対象 | 中小企業・小規模事業者・個人事業主 |
| 活用例 | 新サービスの試作・実証、新業態の立ち上げ設備投資、既存業務の革新的な改善 |
住野がカー用品専門店という「日本初の業態」を開業したように、既存業界にない新しいサービスや業態を試みる際のシステム開発・設備投資にこの補助金を活用できる可能性がある。
小規模事業者持続化補助金
| 補助上限額 | 最大250万円(創業型・特別枠) |
|---|---|
| 対象者 | 小規模事業者(常時使用する従業員が20名以下) |
| 活用例 | 新サービスの販路開拓・広告宣伝、チラシ作成、ウェブサイト構築 |
| 直近の締切 | 一般型 第19回: 2026年4月30日 |
1号店を開業しても、顧客に知られなければ意味がない。住野が「カー用品専門店」という業態を地域に認知させるために行った告知活動と同様に、新サービスの認知拡大や販路開拓に使える費用を補助する。
事業承継・引継ぎ補助金
| 補助上限額 | 600万円〜800万円(経営革新枠) |
|---|---|
| 対象 | 事業承継・引継ぎを行う中小企業・小規模事業者 |
| 活用例 | 事業承継後の新規事業展開、新業態・新サービスの立ち上げ投資 |
住野が1994年に息子・住野公一に承継したように、事業を引き継いだ後の新たな挑戦に使える補助金だ。承継した事業に新しいビジネスモデルを組み合わせて展開する際の費用を補助する。
まとめ
住野敏郎は、アメリカで「カー用品専門店」という業態を目の当たりにし、「日本でもこれはできる」という確信を持ち帰った。社員全員の反対を押し切って1974年11月に1号店を開業し、翌年からフランチャイズ展開を開始。1号店から5年で100号店、13年で全都道府県に展開、15年で東証上場を果たした。
彼が創出したのは単なる「店舗」ではない。「カー用品専門店」という業態そのものだ。その業態はオートバックス一社にとどまらず、日本の流通業界に一つの産業を生み出した。「常に1番、No.1経営」——この哲学の背景にあったのは、「先に業態を作った者が市場を定義する」という深い確信だった。
あなたの業界でも、「海外にはあるが日本にない」サービスや業態が眠っているかもしれない。国の補助金制度は、その「最初の一歩」を踏み出すための支援を用意している。
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