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経営者向け 創業ストーリー

森稔(森ビル)|地権者400人・17年の交渉を貫いた「都市を変える」異常な情熱

森稔(森ビル)|地権者400人・17年の交渉を貫いた「都市を変える」異常な情熱 - コラム - 補助金さがすAI

2003年4月25日、東京・六本木に高さ238メートルの森タワーを中心とする巨大複合施設「六本木ヒルズ」が開業した。それまで幅4メートル弱の細い路地に木造家屋が密集し、「東京の恥部」とも呼ばれた地区が、年間4,000万人の来街者を集める都市へと変貌した瞬間だった。開業56日目には来街者1,000万人を突破した。しかしその裏側には、地権者400人以上・12,000通の反対意見書・4件の明渡し訴訟——17年間、一日も諦めなかった一人の男の執念があった。森ビル2代目・森稔(もり みのる)。「東京の再生なくして日本の再生はない」と信じ、誰もが不可能と言った都市改造を現実にした情熱の軌跡を追う。

1. 父・泰吉郎の背中——「貸しビル御殿」から「都市を創る」へ

森稔は1934年(昭和9年)8月24日、東京に生まれた。父・森泰吉郎は元横浜市立大学の経済学教授で、1959年に森ビルを設立した。泰吉郎はその後「貸しビル王」「ビル長者」として知られ、1990年代初頭には米フォーブス誌の世界長者番付でトップに輝いたほどの資産家となる人物だ。

しかし父子はその経営哲学で大きく異なった。泰吉郎がコストと効率を重視し、「収益を生む小型ビルを着実に建てる」という発想で虎ノ門・西新橋地域にナンバービルを積み上げていったのに対し、稔は東京大学教育学部社会教育学科を1959年に卒業して森ビルに入社すると、まるで違う景色を見ていた。

稔が抱いた問いはシンプルだった——「東京はなぜこれほど不便で、美しくないのか」。当時の東京都心は関東大震災・太平洋戦争からの復興を経ても、区画整理が進まず木造密集地が残り続けた。幅4メートル以下の細道、老朽化した木造家屋が連なる「不燃化されていない街」。大地震や火災で一気に燃え崩れかねない脆弱な都市構造が、戦後の経済成長の裏に放置されていた。

稔はスイスの建築家ル・コルビュジエが提唱した「立体緑園都市構想」を自社の思想に応用した。「都心に超高層ビルを集約して機能を高め、空いた土地を緑と公共空間に戻す」——その発想は、単なる不動産開発を超えた都市改革の哲学だった。1964年に常務、1969年に専務に就いた稔は、少しずつその哲学を事業に落とし込み始めた。

(出典: Wikipedia「森稔」森ビル「都市を創り、都市を育む」)

2. アークヒルズ——19年を費やした「最初の証明」

六本木ヒルズの前に、森稔には一度の「前哨戦」があった。赤坂・溜池山王エリアの再開発、通称「アークヒルズ」だ。1967年ごろから交渉を開始し、1986年の竣工まで実に19年を費やした、日本初の民間主導大規模複合再開発である。

当時、赤坂・六本木一丁目エリアも六本木六丁目と同様に木造家屋が密集し、多くの中小地権者が入り組んでいた。森ビルの社員は交渉のためにその地区の空き家に実際に住み込み、コミュニティの一員として地道に関係を築いていった。今日のコンサルタントが好む「利害関係者マネジメント」などという言葉はなかった時代に、社員が書道教室・そろばん教室を開いて地域に入り込むという泥臭い手法で、450世帯以上の合意形成に10年超を費やした。

「地権者と向き合うとき、私たちは売主ではなく、同じ街に生きる住民でなければならない」

-- 森稔(アークヒルズ開発当時の方針)

1986年のアークヒルズ完成は、超高層タワー・ホテル・住宅・ホール(サントリーホール)が一体となった複合施設として日本の都市開発の新章を開いた。しかし森稔にとってこれは「証明の第一歩」に過ぎなかった。彼の目には、次の戦場——六本木六丁目——がすでに映っていた。

(出典: 森ビル「アークヒルズ:コンセプト・開発経緯」)

3. 「地上げ屋と思われた」——1986年、六本木六丁目への挑戦

1986年11月、東京都が六本木六丁目地区を「再開発誘導地区」に指定し、森ビルとテレビ朝日が住民への呼びかけを始めた。当時、日本はバブル景気の真っ只中にあった。都内各地で「地上げ屋」が老人や弱者を脅して土地を奪っていく時代だ。森ビルの担当社員が玄関を叩くと、住民の第一声はこうだった——

「うちは売らないよ。周りに何十件もあるんだから、話しに来るなら最後にしてくれ」。仮に会えたとしても、森ビルが「再開発を一緒にやりましょう」と言っているのか、「土地を売ってください」と言っているのかすら、住民には区別がつかなかった。

六本木六丁目は約11ヘクタール、南側に約17メートルの高低差を持ち、幅4メートル弱の狭い道路を挟んで木造家屋や小規模アパートが密集していた。消防車が入れない。雨が降れば水が溜まる。大地震が来れば延焼が止まらない——そういう地区だった。意思決定単位として約300件、所有者数としては400人以上の権利者がそこに存在した。

森稔の戦略は「地上げ屋の逆」だった。買収ではなく、共同事業への参画を求める。土地を奪うのではなく、持ち続けたまま再開発後の新しい建物に権利変換してもらう「権利変換方式」だ。しかしそれを説明するためには、まず「話を聞いてもらえる関係」を作らなければならなかった。

(出典: 森ビル「六本木ヒルズ開発経緯」六本木ヒルズ「開発経緯」)

4. 「赤坂・六本木地区だより」——反対意見を載せる広報誌の逆転発想

森ビルが採った「愚直なコミュニケーション」の象徴が、「赤坂・六本木地区だより」だった。月に2回、4ページの小冊子を森ビル社員が手で地区全域に配布した。驚くべきはその編集方針だ——「反対意見や森ビルに都合の悪い意見こそ、どんどん載せるべき」

通常、デベロッパーが発行する広報誌は自社に有利な情報しか載せない。しかし森稔の方針は逆だった。住民が抱く不安や批判を隠さず紙面にすることで、「この会社は誤魔化さない」という信頼を積み上げる。社員は書道教室やそろばん教室を開き、地域の人々と日常的な接点を持ち続けた。

1990年12月15日、準備組合設立総会が開かれた。加入率は約80%。通常の都市再開発で「奇跡」と呼ばれる水準だが、森稔はそれでは足りないと知っていた。再開発組合の設立には、全権利者の議決権の過半数以上の同意が必要であり、最終的には95%以上の賛成が求められる局面も来る。残り20%の壁は、最も手強い人々だった。

転機の一つは、1979年のアークヒルズ開発時代に遡る。600坪の土地を持つ有力な反対派が「分かった、一緒にやろう」と方針転換した瞬間だ。その人物が翻意した理由は、森ビル社員の何年もの粘り強い訪問だった——「あの会社は逃げない」という確信が最後に動かした。六本木六丁目でも、同じ確信を積み上げることが唯一の道だった。

(出典: PHP「反対住民と正面から向き合った"覚悟"のV字回復」)

5. 12,000通の反対意見書——父の死と孤立無援の継続

1993年(平成5年)、プロジェクトは二重の危機に直面した。一つは「六本木六丁目再開発を考える会」の設立だ。反対派住民が組織化し、都市計画手続の凍結を陳情。収集した反対意見書は約12,000通に達した。もう一つは、同年1月に父・泰吉郎が88歳で死去したことだ。

父の死は、プロジェクトの「後ろ盾」を失うことを意味した。森稔はその年に森ビル社長に就任したが、12,000通の反対意見書、バブル崩壊による不動産市況の悪化、資金繰りの問題が重なる中で、外部からは「もうこの計画は消える」という声すら上がった。

「ここは自分の一生の勝負どころだ」

-- 森稔(六本木ヒルズ開発当時の述懐)

森稔はそれでも止まらなかった。「反対意見書が12,000通あるということは、それだけ多くの人が関心を持っているということだ」——そう解釈し、一件一件の声と向き合い続けた。バブル崩壊で「再開発をやめろ」という経済的な理由も増えたが、逆に「今こそ地域を再生する機会だ」と説いた。

1995年4月28日、都市計画決定の告示が出た。この時点での参加率は約90%。ここまで来るのに9年かかっていた。そして1998年10月6日、再開発組合が設立された。開発の「法的な基盤」がようやく整ったが、着工まではまだ長い道のりがあった。

(出典: 森ビル「六本木ヒルズ開発経緯」Bloomberg「森稔氏が死去」)

6. 2003年4月25日——17年の結実と来街者1,000万人

2000年4月27日、ついに起工式が行われた。1986年の誘導地区指定から15年目のことだ。権利変換計画が認可された後も4件の明渡し訴訟が起き、最後の建物明渡しは2001年2月まで続いた。最後の最後まで、一軒一軒と向き合う必要があった。

2003年4月25日、六本木ヒルズがグランドオープンした。高さ238メートルの森タワーを核に、オフィス・ホテル・住宅・商業施設・美術館(森美術館)・映画館・テレビ朝日が一体となった11ヘクタールの都市が誕生した。約400件の権利者が参加し、約120社・15,000人がオフィスで働き、840戸・約2,000人が居住する「街の中の街」だ。

開業56日目に来街者が1,000万人を突破した。木造家屋が密集していた地区が、年間4,000万人が訪れる東京の顔になった瞬間だ。世界中の都市計画関係者がこのプロジェクトを視察に訪れ、「民間主導の都市再生の奇跡」と称した。

しかし翌年の2004年3月、六本木ヒルズ森タワー正面入口の大型自動回転ドアで6歳の男児が死亡する事故が発生した。森ビルがそれ以前から続発していた挟まれ事故を十分に対処していなかったことが明らかになり、世論の厳しい批判を受けた。輝かしい完成の直後に訪れた最大の試練でもあった。

(出典: 森ビル「六本木ヒルズ開業から20年」プレスリリース国土交通省「六本木ヒルズ事故の概要」)

7. 森稔の軌跡から学ぶ教訓と、中小企業が活用できる補助金

森稔の17年間が残した最大の教訓は、「反対はゴールではなく、対話のスタートラインだ」という思想だ。12,000通の反対意見書を「廃案の根拠」と読まず「関心の証拠」と読んだ視点は、事業計画を実現するために反対勢力と戦うのではなく共に考えるという姿勢の反映だ。中小企業の経営者が新しい事業に踏み出すとき——店舗の改装、新サービスの立ち上げ、人材育成の仕組み作り——その過程で直面する「反対」や「抵抗」も、同じ原理で向き合うことができる。

森稔の経営判断 関連する補助金・支援制度
老朽木造密集地区の再開発・不燃化(アークヒルズ・六本木ヒルズ) 老朽建築物除却補助・不燃化推進助成(東京都)
複合施設の開発(オフィス・商業・住宅・文化施設の一体化) 事業再構築補助金(新分野展開・業態転換)
地域コミュニティとの長期的な信頼構築(月2回の広報誌・教室活動) 商店街活性化補助金・地域活性化補助金
森美術館・文化施設の設置による街のブランド価値向上 文化芸術振興費補助金・観光地域づくり補助金
省エネ・環境配慮型超高層ビルの設計 省エネ設備導入補助金・ZEB推進補助金(経産省・国交省)

特に注目したいのは事業再構築補助金との親和性だ。森稔がアークヒルズと六本木ヒルズで実現した「用途の混在した密集地を複合超高層に転換する」という発想は、補助金の文脈では「業態転換」「新分野展開」に相当する。既存の土地・建物という「資産」を活かしながら全く異なるビジネスモデルに転換する——その発想は規模を問わず通じる。

また、森稔が「地区だより」で反対意見を積極的に載せた手法は、現代の中小企業経営者が地域コミュニティや商店街の活性化補助金を活用する際にも示唆深い。補助金の審査では「地域の合意形成や協力体制」が高く評価される。反対意見を「消す」のではなく「対話で巻き込む」姿勢は、補助金申請書に書く「地域連携」の欄にそのままあてはまる。

(出典: 事業再構築補助金 公式サイト東京都「不燃化推進助成」)

まとめ

森稔は「貸しビル御殿」を引き継ぐ2代目として出発しながら、「東京の再生なくして日本の再生はない」という哲学を抱いて都市改造に挑んだ。アークヒルズで19年、六本木ヒルズで17年——合わせて36年にわたる「説得」の連続だった。彼が使った武器は権力でも金力でもなく、「逃げない」という姿勢だった。反対意見書を紙面に載せた月2回の広報誌、社員が住み込んだ地域活動、一件一件の訪問——その愚直さが最終的に400人以上の地権者を動かした。

「反対はゴールではなく、対話のスタートラインだ」。この視点は、規模を問わずあらゆる事業の変革に通じる。新しいことを始めれば必ず摩擦が生じる。その摩擦を正面から受け止め、一件一件向き合うことを選べるか——森稔の17年間は、その問いを突きつける。

あなたの事業にも「諦めずに続ける理由」はあるか。それを支える補助金を、今日から探してみてほしい。

参考資料

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この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

X-HACK Inc. 代表取締役。システムコンサルタントとして中小企業の基幹システム構築・業務設計に携わったのち、自ら起業。小規模ビジネスの立ち上げから黒字化までを複数回経験し、採用・資金調達・補助金申請の実務にも精通。「補助金さがすAI」の開発・運営を通じて、経営者が本当に必要とする情報を現場目線で発信しています。

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