山内溥(任天堂)|22歳の3代目社長が花札メーカーを世界的ゲーム企業に変えた「ハードはソフトのドレイ」の哲学
1949年、京都。早稲田大学法学部に通っていた22歳の山内溥(やまうち・ひろし)は、祖父・山内積良の急逝の報を受けて大学を中退し、家業である任天堂骨牌(こっぱい)の3代目社長に就任した。花札とトランプを製造する小さな京都の老舗——それが、後に世界のゲーム業界を支配する「任天堂」の出発点だ。就任直後、山内は一族の古参幹部全員を解雇し、独裁的なまでの経営権を確立した。「優秀な人材を確保し、好きなことをやらせる」「ハードはソフトのドレイ」——彼が後年語ったこれらの言葉は、花札メーカーをファミリーコンピュータの会社へ、そして世界的なエンターテイメント企業へと変貌させた経営哲学そのものだった。本稿では、22歳で家業を継いだ男が、いかにして業態を3度転換し、85歳で生涯を終えるまでに「世界の任天堂」を築き上げたのか、その情熱の軌跡を追う。
1949年、22歳での社長就任——祖父の急逝と一族追放
山内溥は1927年(昭和2年)11月7日、京都市に生まれた。父・鹿之丞は早くに家を出て母方の名字を継いだため、山内は祖父・山内積良(せきりょう)の元で育てられた。積良は、明治22年(1889年)創業の花札製造会社「任天堂骨牌」を切り盛りする2代目社長であり、山内にとって父代わりの存在だった。
1949年、早稲田大学法学部に在学中の山内のもとに、祖父急逝の報が届く。山内は大学を中退し、京都に戻った。同年、わずか22歳で任天堂骨牌の3代目社長に就任することになる。創業家ではあるものの、業界の経験はゼロ。社内には、祖父の代から会社を支えてきた古参の番頭や、創業家の親族たちが居並んでいた。
山内が最初に下した決断は、極めて非情なものだった。社長就任直後、彼は一族の古参幹部全員を解雇し、自分に逆らう可能性のある人物を会社から一掃した。「年長者を立てる」という日本の老舗文化の常識を破る荒療治だったが、山内には確信があった。「社長としての絶対的な決定権を握らなければ、変化はできない」——若い経営者が古参に妥協し続ければ、改革は不可能になる。だからこそ最初に独裁を確立した。
この時期の山内の判断は冷徹そのものだった。だが結果として、任天堂は山内の決断のスピードで時代を駆け抜けることになる。一族経営の中小企業がしばしば陥る「合議による停滞」を、22歳の若き社長は最初の一手で回避してみせた。
(出典: Wikipedia「山内溥」、任天堂「会社の沿革」)
プラスチック製トランプとディズニー契約——花札メーカーの再発明
社長就任当初の任天堂は、依然として花札とトランプの製造販売が主力だった。しかし山内は早くから、「花札市場は縮小していく」と読んでいた。当時の花札はおもに賭博の道具として用いられており、戦後の生活様式の変化と相まって需要が頭打ちになりつつあった。新しい商材が必要だった。
1953年(昭和28年)、山内は日本で初めてプラスチック製のトランプの製造販売に踏み切った。それまで日本のトランプは紙製が当たり前で、耐久性に乏しく汚れやすかった。プラスチック製は丈夫で水にも強く、トランプの常識を一変させた。アメリカで普及していたプラスチック製カードを、いち早く日本市場に投入したのである。これが当たり、任天堂のトランプは大ヒット商品となった。
1959年(昭和34年)、山内はもう一つの大胆な手を打つ。ウォルト・ディズニー社とライセンス契約を結び、ディズニーキャラクターをあしらったトランプを発売したのだ。ミッキーマウスやドナルドダックの絵柄が入ったカードは、家庭の娯楽として爆発的に売れた。子供から大人までが楽しめるファミリー向け商品としてポジションを獲得し、「賭博の道具」というカードゲームの旧いイメージから任天堂を解き放った。
この時期の山内の判断には、後の任天堂を貫く一つの哲学が見える。それは「キャラクターと体験の価値」を商品の中心に据える発想だ。素材を変える(プラスチック化)だけでなく、IP(知的財産)と提携して体験を変える——この発想が、のちにマリオやポケモンを生むエンターテイメント企業の土台となる。
(出典: 任天堂「会社の沿革」、Wikipedia「任天堂」)
ホテル・タクシー・ラブホ——多角化失敗が教えた「本業の幅」
1960年代、プラスチックトランプとディズニートランプで成長した任天堂は、再び壁に突き当たる。カードゲーム市場そのものが頭打ちになり、新たな成長軸が必要となった。そこで山内が打って出たのは、複数の異業種への多角化だった。
1961年に「ダイヤ観光」というタクシー会社を設立し、続いてホテル経営にも進出した。さらに食品事業(インスタント食品)、ラブホテル運営、コピー機サービスなど、考えうる業種に次々と参入していった。1960年代の日本は高度経済成長期で、サービス業全般に需要が広がっていた。京都という観光地でホテルを営み、街を走るタクシーを束ねる——一見、理にかなった多角化に見えた。
だが、結果は惨憺たるものだった。これらの多角化事業はことごとく失敗に終わる。本業の花札・トランプとは何の連続性もない事業に、社内のノウハウは通用しなかった。山内自身が後年、「あの時期は迷走した」と振り返るほどの暗黒期だった。会社の財務は悪化し、株価は一時、額面である50円を下回るところまで沈んだ。
この失敗から山内が学んだことは大きい。それは「多角化は『本業の延長線上』でなければ生き残れない」という冷徹な現実だ。任天堂は何のために存在するのか——「人を楽しませること」だ。ホテルもタクシーも、それ自体は立派な事業だが、任天堂のDNAではなかった。本業の幅をどう広げるかを徹底的に問い直す——その視点が、次の玩具事業、そしてゲーム機事業への大胆な賭けにつながっていく。
(出典: Wikipedia「任天堂」、任天堂「会社の沿革」)
玩具事業への転換——「ウルトラハンド」「光線銃」が拓いた新市場
1960年代後半、山内は玩具事業への本格的な転換を決断する。花札・トランプという「遊び道具」のメーカーから、より広い意味での「玩具メーカー」へ——本業の延長線上で勝負する道を選んだのだ。
この転換を象徴するのが、1966年に発売された「ウルトラハンド」だ。アコーディオン状に伸び縮みする腕の玩具で、開発したのは入社2年目の社員・横井軍平だった。山内が工場で偶然見かけた横井の試作品を「これは商品になる」と即決し、製品化した。ウルトラハンドは大ヒットし、累計120万個以上を売り上げる任天堂最初の玩具ヒット商品となった。
続く1970年代には、光線銃を使った射撃ゲーム「光線銃SPシリーズ」や、家庭用テレビゲーム「カラーテレビゲーム15」「カラーテレビゲーム6」を次々と投入する。1977年に発売したカラーテレビゲームシリーズは累計300万台以上を売り上げる大ヒットとなり、任天堂をエレクトロニクス玩具メーカーへと押し上げた。
この時期の山内の経営手法には、後の任天堂を貫くもう一つの哲学が現れている。それは「優秀な人材を確保し、好きなことをやらせる」というスタイルだ。横井軍平、宮本茂、そして後の岩田聡——技術と創造性を備えた人材を見出し、彼らに大幅な裁量を与えて開発を任せた。山内自身は技術者ではなかったが、人材を見抜く眼力と、それを信じる胆力で組織を動かした。「自分は技術はわからん。だから優秀な技術者を信じる」——これが山内流の経営の骨格だった。
(出典: 任天堂「会社の沿革」、Wikipedia「山内溥」)
1983年ファミコン発売——56歳の決断が世界を変えた
1980年、任天堂は携帯型液晶ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」を発売した。横井軍平の発案で、電卓型液晶を使った小型ゲーム機は世界中で大ヒットし、累計4340万個を売り上げた。任天堂は玩具メーカーからエレクトロニクスゲーム機メーカーへの脱皮を果たしつつあった。
そして1983年(昭和58年)7月15日、56歳の山内は経営人生最大の賭けに出る。家庭用ゲーム機「ファミリーコンピュータ」(通称ファミコン)の発売だ。価格は14,800円——当時の家庭用ゲーム機の半額に近い破格の安さで、しかも性能はアーケードゲームに迫るレベル。山内は「ハードを安く売り、ソフトで儲ける」というビジネスモデルを徹底した。
「ハードはソフトのドレイ。ソフトを売るためにハードがあるのだ」
—— 山内溥が繰り返し語ったゲームビジネスの本質
ファミコンは発売初年度に44万台を売り、1985年9月発売の「スーパーマリオブラザーズ」とともに社会現象となった。国内累計1935万台、世界では6191万台を売り上げる空前のヒット商品となり、家庭用ゲーム機という新たな市場そのものを任天堂が創出した。続く1989年には携帯ゲーム機「ゲームボーイ」、1990年には「スーパーファミコン」を発売し、家庭用ゲーム機市場における世界的な覇権を確立した。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1949年 | 22歳で任天堂骨牌3代目社長に就任、一族幹部を解雇 |
| 1953年 | 日本初のプラスチック製トランプを発売 |
| 1959年 | ディズニー社とライセンス契約、ディズニートランプ発売 |
| 1966年 | 玩具「ウルトラハンド」発売、玩具事業へ転換 |
| 1980年 | 携帯ゲーム機「ゲーム&ウオッチ」発売(累計4340万個) |
| 1983年 | 「ファミリーコンピュータ」発売(56歳の決断) |
| 1989年 | 「ゲームボーイ」発売(累計1億1869万台) |
| 1990年 | 「スーパーファミコン」発売 |
| 2002年 | 社長を退任、岩田聡に経営を譲渡 |
| 2013年 | 9月19日逝去(85歳) |
2002年、山内は53年間に及ぶ社長職を退任し、後継者として42歳の岩田聡を指名した。HAL研究所出身でゲームプログラマーとして卓越した能力を持っていた岩田を、創業家以外から起用したこの人選は業界を驚かせた。「能力がある者が経営すべきだ」——血筋にこだわらない山内の判断は、後にWiiやニンテンドーDSの世界的ヒットを生む布石となった。2013年9月19日、山内は85歳で逝去。創業家3代目として64年間、任天堂を率いた生涯だった。
まとめ
山内溥の生涯は、業態転換と人材登用に賭けた64年間だった。1949年、22歳で祖父の急逝により任天堂骨牌の3代目社長に就任し、一族幹部を一掃して経営権を確立。1953年に日本初のプラスチック製トランプを発売し、1959年にはディズニー社との契約でファミリー向け商品に進出した。1960年代の多角化(ホテル・タクシー・食品)で苦汁を舐めた後、1966年からの玩具事業転換で「ウルトラハンド」「光線銃SP」「カラーテレビゲーム」を成功させ、1983年には56歳でファミリーコンピュータを発売。1989年「ゲームボーイ」、1990年「スーパーファミコン」と続け、世界的ゲーム企業の地位を不動のものにした。
「優秀な人材を確保し、好きなことをやらせる」「ハードはソフトのドレイ」——山内が残した言葉は、業界やテクノロジーが変わっても通用する経営原則だ。技術はわからなくても、人を信じる眼力があれば組織は動く。価値の源泉がソフト(体験)にあると見抜けば、ハードの売り方が変わる。


