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経営者向け 創業ストーリー

早川徳次(シャープ)|関東大震災で工場・妻・子2人を一夜で失い、大阪で日本初のラジオを生んだ男

早川徳次(シャープ)|関東大震災で工場・妻・子2人を一夜で失い、大阪で日本初のラジオを生んだ男 - コラム - 補助金さがすAI

1923年(大正12年)9月1日、東京・本所。早川徳次(はやかわ・とくじ)は29歳だった。シャープペンシルの大ヒットで工場は林町120坪、亀戸にも分工場を構え、従業員200人を抱える金属加工事業者として、波に乗っていた。その日の正午前——マグニチュード7.9の関東大震災が首都圏を襲った。工場は全焼。最愛の妻・文子は重傷を負い、間もなく息を引き取った。2人の幼い子も帰らぬ人となった。残されたのは「2万円を即時返済せよ」という債権者からの厳しい督促だけだった。すべてを失った徳次は、48種類の特許と機械類を無償譲渡し、技師長として6カ月間雇われる契約を交わして、東京を後にした。同年12月、身一つで降り立ったのは大阪——縁もゆかりもない地だった。それからわずか1年9カ月後の1925年4月、徳次は日本初の国産鉱石ラジオを世に送り出す。家電大国ニッポンの原点となった、絶望からの再起の物語だ。

1. 養子に出された幼少期と、丁稚奉公7年7カ月で得た金属加工の腕

早川徳次は1893年(明治26年)11月3日、東京府日本橋区久松町に生まれた。生家は貧しく、幼くして出野家に養子に出された。継母からの扱いは厳しく、満足な食事も与えられない日々が続いた。徳次は尋常小学校をわずか2年で中退。8歳の少年が放り出されたのは、明治末期の東京の路地だった。

そんな徳次に手を差し伸べたのは、近所に住んでいた一人の盲人女性だった。「この子に手に職を付けさせたい」——その思いから、女性は本所北二葉町の錺屋(かざりや)職人・坂田芳松に徳次を引き合わせた。1901年(明治34年)9月15日、徳次は丁稚奉公として坂田の工房に入った。8歳の徳次が掴んだのは、金属を打ち、磨き、組み立てる職人の世界だった。

奉公期間は7年7カ月に及んだ。読み書きすら満足にできない少年が、寝食を惜しんで金属加工の技術を吸収していった。錺屋の仕事は、ベルトのバックル、ボタン、装身具など、生活雑貨の金属部品を一つひとつ手仕事で仕上げる職人芸だ。徳次は親方の手元を凝視し、寝る間も惜しんで腕を磨いた。後年の発明家・早川徳次の根幹を成すのは、この7年余りの修業で叩き込まれた「手の記憶」だった。

恩義を一生忘れない男だった。徳次は晩年、自身の幼少期に支援してくれた盲人女性への恩を返すかのように、戦後、失明者のための工場を自費で開設する。早川徳次の経営哲学を貫く「事業は社会奉仕」という思想の原点は、この丁稚時代の体験にある。

(出典: Wikipedia「早川徳次(シャープ)」シャープ「会社沿革」

2. 1912年「徳尾錠」で独立——19歳、開業資金は借金40円

丁稚奉公を終えた徳次は、1912年(明治45年/大正元年)9月15日、19歳の若さで独立を果たした。開業資金はわずか50円。そのうち40円は借金で、自己資金は10円にすぎなかった。従業員は2名。本所松井町の小さな借家での、文字通りの「裸一貫」のスタートだった。

独立を後押ししたのが、徳次の最初の発明品「徳尾錠(とくびじょう)」だ。これはベルトに穴を開けずに長さを調節できる革新的なバックルだった。当時のベルトは穴を一つひとつ開けて使うのが常識で、体型の変化に弱く、革にも傷がついた。徳次は金属加工技術を駆使して、穴を開けずに留められるバックル機構を作り上げた。

徳尾錠は東京・神田の問屋から33グロス(4,752個)の大量受注を獲得した。借金40円は翌月にはすべて返済された。「人がやらない、人が困っている、その隙間を埋めれば商売になる」——徳次の生涯を貫くものづくり哲学が、この最初のヒットに凝縮されている。

1914年(大正3年)3月、徳次は清水政吉の長女・文子と結婚した。事業は順調に伸び、従業員は7名に増えた。徳次は当時としては珍しくモーターを導入し、作業効率を一気に引き上げる。さらに、長く生き別れになっていた兄・政治と再会し、政治が販売を、徳次が製品開発を担う兄弟二人三脚の体制が整っていった。

(出典: Wikipedia「早川徳次(シャープ)」シャープ「会社沿革」

3. 1915年「早川式繰出鉛筆」——欧米で爆発し社名の由来となった発明

1915年(大正4年)、徳次の人生を変える依頼が舞い込む。プラム製作所の中田清三郎から「繰出鉛筆の金具部分を作ってほしい」という相談を受けたのだ。繰出鉛筆——ボタン操作で芯を繰り出す筆記具——は当時の最新文具で、欧米から輸入品が入り始めていた。だが従来のセルロイド製は壊れやすく、実用に耐えなかった。

徳次の解は明快だった。金属——真鍮の一枚板を加工した部品と、ニッケルメッキを施した軸——で作る。これにより耐久性と装飾性が一気に向上した。「早川式繰出鉛筆」と名付け、特許申請を行った。これが現在のシャープペンシルの原型だ。

ところが、国内の最初の反応は冷たかった。「金属軸は重い」「和服のたもとに合わない」——苦情が続出したのだ。徳次は腐らなかった。彼は活路を海外に見出す。欧米の文具商に売り込んだところ、これが大ヒットした。逆輸入の形で日本国内でも一気に評価が反転し、注文が殺到する。1916年には商品名を「エバー・レディ・シャープ・ペンシル」から「シャープペンシル」へと改名した。後の社名「シャープ」の由来となる、運命の商品だ。

「まねされる商品をつくれ」

—— 早川徳次が社内で繰り返した、独創への執着を表す口癖

1919年(大正8年)、東京・本所林町に120坪の新工場と24坪の事務所を建設。徳次はこの新工場で、日本ではまだ珍しかった流れ作業(ライン生産方式)とコンベアシステムを導入した。1920年に押上分工場、1921年に亀戸250坪の用地を取得。徳次30歳、事業は一気に拡大の波に乗っていた。

(出典: Wikipedia「早川徳次(シャープ)」シャープ「会社沿革」

4. 1923年9月1日——関東大震災で妻・子2人・工場を一夜で失う

1923年(大正12年)9月1日午前11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震が首都圏を直撃した。関東大震災だ。直後の火災が燃え広がり、東京下町は地獄絵図と化した。徳次の本所の工場は全焼。林町120坪も、押上分工場も、亀戸の用地もすべて灰となった。

失ったのは、工場だけではなかった。妻・文子は瓦礫の下から救出されたが、重い火傷を負って間もなく息を引き取った。さらに2人の幼い子も帰らぬ人となった。徳次は一夜にして、家族と事業の両方を一度に失った。29歳の青年に、これほどの不幸を一気に被せた運命を、彼はどう受け止めただろうか。

追い打ちをかけるように、文具卸の日本文具製造から「貸付金2万円を即時返済せよ」という督促が届いた。手元には何も残っていなかった。同年11月、徳次は兄・政治と協議し、苦渋の決断を下す。

  • 機械類(評価額2万2,000円相当)を日本文具製造に無償譲渡する
  • シャープペンシル関連の48種類の特許を無償譲渡する
  • 徳次自身は技師長として6カ月間、日本文具製造に雇われる

事実上、自分が築き上げてきた事業のすべてを差し出す契約だった。シャープペンシルという、後に世界中で使われる発明品の権利も手放した。徳次は何も持たず、ただ「手の記憶」と「経験」だけを抱えて、12月、大阪行きの汽車に乗った。

大阪に縁戚はあった。しかし、自分の城は何もない。残されたのは、生きるという一つの行為そのものだった。徳次の人生で、これほど深い闇の時間はなかった。だが、彼は折れなかった。後年、徳次は「事業の第一目的は社会への奉仕」と繰り返し述べたが、その境地に至る源泉は、この絶望のどん底で「それでも生きる」と決めた1923年の冬にある。

(出典: Wikipedia「早川徳次(シャープ)」シャープ「会社沿革」

5. 1925年、大阪で日本初の鉱石ラジオを発売——身一つから家電メーカーへの跳躍

1924年(大正13年)8月、徳次は日本文具製造との契約期間を終え、退社した。同年9月1日——奇しくも関東大震災のちょうど1年後——大阪府東成郡田辺町に「早川金属工業研究所」を設立した。再起の第一歩だ。だが、もはやシャープペンシルは作れない。特許も機械も譲渡してしまったからだ。徳次は「自分は次に何を作るべきか」を必死に考えた。

答えは突然訪れた。心斎橋の縁戚の店で、アメリカから輸入された鉱石ラジオを2台見た瞬間、徳次の中で何かが弾けた。「これは日本でも必ず普及する。しかも国産で安く作れば、日本人の生活が変わる」。徳次は2台のラジオを購入し、従業員と分解・研究を始めた。

当時、日本のラジオ放送はまだ存在しなかった。だが1925年(大正14年)3月、東京放送局(後のNHK)が本放送を開始する。徳次はその数カ月前から、国産ラジオの開発に没頭していた。鉱石を検波器とするシンプルな構造を理解し、金属加工で培った精密な部品製造技術を応用して、1925年4月、国産第1号の鉱石ラジオの開発に成功した。震災から1年9カ月、ゼロから新分野に挑んでの偉業だった。

1925年6月1日、NHK大阪放送局の開局試験放送で、徳次が開発した鉱石ラジオは明瞭に音声を受信した。販売価格は3円50銭——外国製の半額以下だった。これが爆発的に売れた。「シャープのラジオ」という呼び名が定着し、ブランド「シャープ」が誕生する。1929年には交流式真空管ラジオも投入。家電メーカー・シャープの源流がここにある。

主な出来事
1912年 19歳で独立、徳尾錠を発明・特許取得
1915年 早川式繰出鉛筆(後のシャープペンシル)発明
1923年 関東大震災で工場・妻・子2人を失う、大阪へ移転
1925年 日本初の国産鉱石ラジオを発売
1942年 「早川電機工業株式会社」(現シャープ)に改称
1953年 日本初の国産テレビ「TV3-14T」発売(17万5,000円)
1962年 日本初の国産電子レンジを発売
1964年 世界初オールトランジスタ電卓「CS-10A」発売
1970年 社名を「シャープ株式会社」に変更、会長退任
1973年 世界初の液晶表示電卓「EL-805」発売

徳次の発明・開発史は、戦後さらに加速する。1953年に国産第1号テレビ「TV3-14T」(販売価格17万5,000円・当時のサラリーマン年収の数倍)、1962年に日本初の電子レンジ、1964年に世界初のオールトランジスタ電卓「コンペット CS-10A」、1973年には世界初の液晶表示電卓「EL-805」を世に送り出した。「人のまねをするな」「まねされる商品をつくれ」——徳次の哲学は、現代に至るまでシャープのものづくりの背骨であり続けている。

(出典: シャープ「会社沿革」Wikipedia「早川徳次(シャープ)」

6. 早川徳次の軌跡から学ぶ教訓と、中小企業が活用できる補助金

早川徳次の経営哲学の核心は、「独創」と「社会奉仕」の2つだ。「まねされる商品をつくれ」という口癖の通り、徳尾錠、シャープペンシル、鉱石ラジオ、テレビ、電子レンジ、電卓、液晶——どれもが「日本初」「世界初」の冠を持つ。一方で、徳次は1944年に失明軍人の働く「早川電機分工場」を開設し、戦後も合資会社特選金属工場(現・シャープ特選工業)として運営を継続。1954年には共働き家庭の育徳園保育所、1962年に早川福祉会館を開設するなど、稼いだ富を社会に還し続けた。

徳次の人生からは、現代の中小企業経営者にも通じる3つの教訓を読み取れる。第一に、逆境からの再起は「ゼロからの新分野」で果たすこと。徳次は震災ですべてを失った後、文具の延長ではなく、まったく未経験のラジオ分野に踏み込んだ。第二に、国内に売れない時は海外に売ること。シャープペンシルが国内で不評だった時、欧米で大ヒットさせ、逆輸入で評価をひっくり返した。第三に、独創を生む土壌は、現場の手の記憶であること。徳次の発明はすべて、8歳から積み上げた金属加工の手仕事から派生している。

早川徳次の経営判断 関連する補助金・支援制度
19歳で50円(自己資金10円・借金40円)の極小資本で創業 小規模事業者持続化補助金(創業・販路開拓)・創業支援補助金
徳尾錠・シャープペンシルなどオリジナル発明で特許を取得 ものづくり補助金(製品開発・特許取得)・知財総合支援窓口
国内で売れず欧米へ輸出、逆輸入で国内ヒット化 JAPANブランド育成支援等事業・海外展開支援補助金
震災ですべて失い、文具から家電ラジオへ業態転換 事業再構築補助金(業態転換・新分野展開)・BCP策定支援
流れ作業・コンベアシステムを当時としていち早く導入 ものづくり補助金(生産プロセス改善)・省力化投資補助金
失明者雇用・保育所・福祉会館など社会貢献を継続 特定求職者雇用開発助成金・人材開発支援助成金

特に注目したいのが事業再構築補助金との関連だ。徳次は震災で文具事業のすべてを失った後、ラジオというまったく異なる分野で再起した。これはまさに事業再構築補助金が想定する「業態転換」「新分野展開」の典型例にあたる。災害、感染症、市場変化などで既存事業の継続が困難になった中小企業が、新たな分野に挑戦する際の心強い後押しとなる制度だ。

また、徳次のシャープペンシルが「欧米でヒット→逆輸入で国内評価」というパターンを辿ったように、JAPANブランド育成支援等事業は中小企業の海外展開を後押しする。国内市場で苦戦している商品でも、海外では高い評価を受ける可能性は十分にある。徳次が大正時代に独力で開いた販路を、現代の中小企業経営者は補助金の後押しで挑戦できる。さらに徳次が自前で導入した生産ラインの効率化は、現代ではものづくり補助金省力化投資補助金が支援対象としている領域だ。

(出典: 中小企業庁 ミラサポplus「人気の補助金」

まとめ

早川徳次の生涯は、「絶望から立ち上がる力」と「独創への執着」の物語だ。8歳で養子先を出されて丁稚奉公に入り、7年7カ月の修業で金属加工を体得。19歳でわずか50円で独立し、徳尾錠、続いてシャープペンシルを発明して事業を急成長させた。だが30歳を前に、関東大震災で工場・妻・子2人を一度に失い、すべての特許と機械を手放して大阪へ移住。それからわずか1年9カ月後、日本初の国産鉱石ラジオを発売し、家電メーカーとしてのシャープを築き上げた。

徳次が一貫して持ち続けたのは「まねされる商品をつくれ」という独創への執念と、「事業は社会への奉仕である」という公益への信念だ。失明者を雇う工場、共働き家庭のための保育所、地域の福祉会館——稼いだ富を社会に還流させる徳次の姿勢は、自身が幼少期に盲人女性に救われた恩義に源泉がある。

あなたの事業も、災害、市場変化、競合の台頭など、思いがけない逆境に遭遇するかもしれない。だが徳次の物語が教えてくれるのは、「すべてを失っても、手の記憶と志があれば次の事業は立ち上がる」ということだ。事業再構築補助金、ものづくり補助金、海外展開支援——現代の中小企業経営者には、徳次の時代にはなかった国の後押しがある。再起の一歩を踏み出す勇気と、それを支える制度を組み合わせて、自分の「日本初」「世界初」を目指してほしい。

参考資料

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この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

X-HACK Inc. 代表取締役。システムコンサルタントとして中小企業の基幹システム構築・業務設計に携わったのち、自ら起業。小規模ビジネスの立ち上げから黒字化までを複数回経験し、採用・資金調達・補助金申請の実務にも精通。「補助金さがすAI」の開発・運営を通じて、経営者が本当に必要とする情報を現場目線で発信しています。

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