仲田祐一(ピジョン)|約6年・1000人の母親に謝礼を払い「おっぱい社長」と呼ばれた哺乳器一筋の情熱
1949年、神奈川県茅ヶ崎市。終戦から4年、シベリア抑留の地獄を生き延びて帰国した仲田祐一(なかた・ゆういち)は、戦争で痩せ細った赤ちゃんたちを目にして決意した。「日本の未来は赤ちゃんにある」——そして同年、わずかな資金と仲間を頼りに「ピジョン哺乳器本舗」を立ち上げた。しかし仲田の挑戦はそこから始まったに過ぎない。理想の哺乳瓶の「乳首」を作るため、彼は約6年間にわたって約1000人もの母親に謝礼を払い、乳首の形状と授乳の研究を重ねた。週刊誌には「おっぱい社長」と書き立てられたが、本人は意に介さなかった。その狂気じみた執念は、現在のピジョン株式会社へとつながる。2024年12月期、ピジョンの連結売上高は約1041億円、グループ従業員は約3000人。茅ヶ崎の小さな町工場から世界のベビー用品市場へ飛躍した、一人の男の「赤ちゃんへの異常な情熱」を辿る。
1910年生まれ、シベリア抑留が生んだ「日本の未来は赤ちゃん」という信念
仲田祐一は1910年(明治43年)に生まれた。日本が日露戦争を経て近代国家への道を歩み始めた時代だ。青年期に第二次世界大戦が勃発し、仲田も戦地へと送り出された。終戦後、満州で旧ソ連軍に抑留され、極寒のシベリアで強制労働に従事することになる。極限の飢餓と寒さ、いつ命を落としてもおかしくない収容所生活——その記憶は仲田の人生観を根本から変えた。
苦難の末に日本の土を踏んだ仲田が目にしたのは、敗戦で疲弊しきった祖国の姿だった。栄養失調で泣くこともままならない赤ちゃん、母乳が出ずに途方に暮れる母親たち。仲田は戦争で失われた命の重みを誰よりも知る人間として、新しく生まれてくる命を支えることに人生を捧げようと決めた。「日本の未来は赤ちゃんにある」——後にピジョンの企業哲学にもつながるこの信念は、シベリアの収容所で死と隣り合わせの日々を過ごした男だからこそ辿り着いた結論だった。
戦後の日本には、欧米のような近代的なベビー用品メーカーは存在しなかった。哺乳瓶も乳首も、多くは戦前のままの粗悪なゴム製品で、衛生面でも形状面でも問題が多かった。「日本の赤ちゃんに、もっと安全で、もっと吸いやすい哺乳器を届けたい」——この発想が、創業の起点となった。
仲田には特別な学歴も、潤沢な資本もなかった。あったのは、シベリアで磨かれた粘り強さと、「赤ちゃんに尽くす」という揺るぎない使命感だけだった。だがその使命感こそが、後に「異常」と評されるほどの研究熱意となって表れていく。
1949年、茅ヶ崎で「ピジョン哺乳器本舗」を創業
1949年(昭和24年)、仲田祐一は神奈川県茅ヶ崎市に「ピジョン哺乳器本舗」を創業した。社名の「ピジョン(Pigeon)」は英語で「鳩」を意味する。鳩は平和の象徴であると同時に、欧米では「母乳をミルクのように出す(pigeon's milk)」と表現されるほど、雛を大切に育てる鳥として知られる。戦争の傷跡が深く残る時代に、平和と子育てを象徴する名を選んだ仲田の願いが、社名に込められている。
創業当時のピジョン哺乳器本舗は、いわゆる町工場の規模だった。社員数も少なく、設備も限られている。それでも仲田は「哺乳器一筋」を貫いた。戦後の混乱期、何でもいいから売れる物を作って売る——そんな選択肢もあった中で、仲田はあえて「赤ちゃんのための哺乳器」という極めて狭い領域に経営資源を集中した。
当時の日本では、哺乳瓶はまだ高級品の部類だった。母乳で育てるのが当然とされ、人工栄養はやむを得ない場合の選択肢に過ぎなかった。市場規模は決して大きくない。それでも仲田は「ニーズが小さい今こそ、品質で勝負できる」と確信していた。粗悪な乳首で赤ちゃんを苦しめる現状を変えること——それが彼の優先事項だった。
1957年には法人化し、株式会社ピジョン哺乳器本舗となる。創業から8年、町工場が正式な株式会社として歩み出した瞬間だった。茅ヶ崎の小さな会社が、後に日本のベビー用品市場の代名詞となるとは、当時誰も想像していなかった。
約6年・1000人の母親に謝礼を払う「おっぱい社長」の異常な研究
仲田祐一の名を伝説に変えたのは、ある一点に対する執念だった。哺乳瓶の「乳首」である。哺乳瓶の本体(瓶)は誰が作っても大きな差はつかない。だが赤ちゃんが直接口にする乳首は、形状・硬さ・穴の大きさ・素材によって「吸いやすさ」がまったく変わる。仲田はこの乳首こそが哺乳瓶の生命線だと見抜いていた。
「赤ちゃんが本物の母乳のように、自然に吸える乳首を作りたい」
—— 仲田祐一が抱き続けた理想(1950年代)
理想の乳首を作るには、まず本物の母親の乳首と授乳の仕組みを知らねばならない。仲田は迷うことなく、極めて泥臭い、しかし徹底した方法を選んだ。出産経験のある母親たちに直接協力を依頼し、謝礼を払って乳首の形状を観察・計測させてもらうのだ。さらに赤ちゃんが母乳を吸う様子を観察し、口腔の動き、舌の使い方、吸引のリズムまで詳細に記録した。
この研究は約6年間続いた。協力した母親の数は、最終的に約1000人に達したと伝えられる。創業間もない町工場の社長が、毎日のように母親たちを訪ね歩き、授乳の様子を記録する——その姿は当時の世間から見ると異様だった。週刊誌は仲田を「おっぱい社長」と書き立てた。揶揄の意味も込められていたが、仲田は意に介さなかった。「子どものために必要な研究なら、何と呼ばれようと構わない」——その腹のくくり方こそ、シベリアを生き延びた男の覚悟だった。
収集された膨大なデータをもとに、ピジョンの乳首は改良を重ねていく。乳首の長さ、円錐角度、根本のふくらみ方、穴の数と大きさ——細部に至るまで「母乳に近づける」工夫が施された。後年、ピジョンが世界に誇る「母乳実感」シリーズの哺乳瓶へとつながる科学的アプローチの原点は、まさにこの時期の仲田の地道なフィールドワークにあった。
1966年「ピジョン株式会社」へ社名変更——ベビー用品総合メーカーへ
哺乳器に注ぎ込んだ徹底研究は、品質と顧客信頼という形で確実に蓄積されていった。1960年代に入ると、日本は高度経済成長期に突入し、ベビーブームによって育児用品の需要は飛躍的に拡大する。ピジョンの哺乳瓶は「乳首が違う」と母親たちの間で評判となり、産婦人科や小児科でも採用が広がった。
1966年(昭和41年)、仲田は社名を「株式会社ピジョン哺乳器本舗」から「ピジョン株式会社」へ変更した。「哺乳器」の文字を社名から外したのは、事業領域を哺乳瓶以外のベビー用品全般に拡大していく決意の表明だった。哺乳瓶で培った「赤ちゃんを科学的に観察し、本当に必要なものを作る」という思想は、おしゃぶり、ベビーボトル、紙おむつ用品、スキンケア、マタニティ用品など、あらゆる育児カテゴリへと展開されていく。
仲田が貫いたのは、「赤ちゃんと母親の視点に立つ」という商品開発の姿勢だ。新商品を作る際は、必ず実際の母親や赤ちゃんに使ってもらい、感想を集め、改良を重ねる。創業初期の「1000人の母親への謝礼研究」で培ったフィールドワーク文化は、社内のDNAとして定着していった。これは現代のピジョンが世界中で展開する「ベビーサイエンス」研究の源流であり、企業が単なる製造業ではなく「育児の専門家集団」として認知される基盤となった。
1970年代以降、ピジョンは海外市場にも進出する。中国、東南アジア、北米——いずれの国でも母親と赤ちゃんは存在し、ピジョンの「徹底観察に基づく商品開発」という方法論は、文化を越えて通用した。仲田が始めた一つの哲学が、グローバル企業の競争力の源泉となったのだ。
東証1部上場・連結売上1041億円——町工場から世界企業への軌跡
仲田の哲学を受け継いだピジョンは、堅実な経営と独自の商品開発力で着実に成長を続けた。1995年(平成7年)、ピジョンは東京証券取引所第二部に上場を果たす。創業から実に46年、町工場として始まった企業が公開企業の仲間入りを果たした瞬間だった。翌1996年には東証一部へ昇格し、日本を代表するベビー用品メーカーとしての地位を確立する。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1910年 | 仲田祐一誕生 |
| 1945年〜 | シベリア抑留を経て復員 |
| 1949年 | 茅ヶ崎で「ピジョン哺乳器本舗」を創業 |
| 1957年 | 株式会社ピジョン哺乳器本舗として法人化 |
| 1966年 | 「ピジョン株式会社」に社名変更、ベビー用品総合メーカーへ |
| 1995年 | 東京証券取引所第二部に上場 |
| 1996年 | 東証一部に指定替え |
| 2024年12月期 | 連結売上高 約1041億円、グループ従業員 約3000人 |
特筆すべきは、ピジョンが「少子化が進む日本」というマクロ環境の逆風下で成長を続けてきた事実だ。日本の出生数は1949年の約270万人をピークに、2024年には約70万人前後まで減少した。本来、ベビー用品市場は縮小して当然の業界である。それでもピジョンが連結売上1000億円超を維持できる理由は、海外売上比率の高さと母親・赤ちゃんに対する深い理解に裏付けられた高付加価値商品にある。中国を中心とした海外市場での売上は連結売上の半分以上を占め、グローバル企業としての成熟期を迎えている。
仲田祐一が約6年間の母親研究を始めた1950年代と、AI・ロボティクスが育児を変えつつある現代——技術環境は激変したが、「赤ちゃんと母親を本当に観察し、必要なものを作る」というピジョンの企業文化は変わらない。それこそが、創業者の情熱が一代の人生を超えて企業価値として継承されている証だ。
まとめ
仲田祐一の軌跡は、「赤ちゃんへの異常な情熱」を実業に変えた稀有な事例だ。シベリア抑留から帰国し「日本の未来は赤ちゃん」という信念を抱いた仲田は、1949年に茅ヶ崎で「ピジョン哺乳器本舗」を創業した。理想の哺乳瓶を作るために約6年・約1000人の母親に謝礼を払って乳首形状と授乳を研究し、週刊誌からは「おっぱい社長」と揶揄された。しかしその執念こそが、ピジョンを2024年12月期 連結売上1041億円超、グループ従業員約3000人のグローバルベビー用品メーカーへと育てた原動力だ。
仲田が示したのは、「顧客の身体まで観察し尽くす徹底性」と「一点突破の専門性」だ。市場規模が小さくとも、自分が貢献したい相手のために徹底的に観察し、改良し、品質を作り込む——この王道を歩む者にこそ、市場は本物の信頼を返してくれる。


