似鳥昭雄(ニトリ)|米国視察で号泣した青年が掲げた「日本の暮らしを豊かに」36期連続増収増益の原点
1972年、米国・ロサンゼルス。28歳の青年が、現地の家具量販店の店内で立ち尽くしていた。似鳥昭雄(にとり・あきお)——札幌で小さな家具店を営む創業5年目の経営者だ。目の前に並ぶソファ、ベッド、ダイニングセット。そのどれもが、日本で売られている同等品の3分の1の値段だった。広々とした住宅に、品質の良い家具が、信じられない安さで暮らしを彩る——「日本の家庭はなぜこんなに貧しいのか」。涙が止まらなかった。この米国視察での衝撃が、後の「お、ねだん以上。」という有名なキャッチコピーと、「住まいの豊かさを世界の人々に提供する」というニトリの使命を生んだ。23歳で札幌に開いた1軒の小さな家具店は、半世紀後に36期連続増収増益を記録し、国内外800店舗超・売上8957億円のホームファッション専門店へと成長した。一人の青年が米国で流した涙が、日本の住まいを変えた物語だ。
樺太引き揚げ・極貧の少年時代——23歳で札幌に「似鳥家具店」を開業
似鳥昭雄は1944年(昭和19年)3月、当時の日本領だった樺太(現・サハリン)で生まれた。終戦の翌1946年、家族とともに北海道へ引き揚げ、札幌の引き揚げ者住宅で極貧の幼少期を過ごす。ヤミ米の販売を手伝い、学校ではいじめを受け、勉強も得意ではなかった。本人は後年、「劣等生だった」と振り返っている。
1964年に札幌短期大学を卒業した後、北海学園大学経済学部に編入。1966年に同大学を卒業した。卒業後はサラリーマンとして勤めたが、3つの就職先を続けて短期間で辞めるなど、組織に馴染めなかった。「自分で何かやるしかない」——その思いが、独立への原動力となる。
1967年(昭和42年)12月、23歳の似鳥昭雄は、札幌市北区に「似鳥家具店」を開業した。約30坪の小さな店舗で、両親から借りた資金を元手に、夫婦二人で家具の販売を始めた。当時の家具店は、いわゆる「街の家具屋」がほとんどで、品揃えも価格も画一的だった。似鳥は「もっと安く、もっと良い品を」と模索したが、開業直後は経営は厳しく、何度も倒産の危機に直面した。
1972年(昭和47年)3月、事業を法人化し「株式会社似鳥家具卸センター」を設立。28歳の若き経営者は、この年に運命を変える米国視察に参加することになる。「もっと広い世界を見なければ、この店の未来は開けない」——直感が告げていた。
1972年、米国視察で号泣——「日本の暮らしを豊かにする」という使命
1972年、家具業界のセミナー主催による米国研修ツアーが企画された。参加費用は当時の似鳥にとって決して安いものではなかったが、「先進国の家具店を見てみたい」という一心で参加を決意する。行き先はロサンゼルスを中心とした米国西海岸——世界の家具流通の最先端だった。
現地で目にした光景は、若き似鳥の常識を根底から覆した。広い住宅、整えられた庭、そして家のなかには上質な家具が惜しげもなく並んでいる。家具量販店に足を踏み入れると、日本では考えられない品揃えと、日本の3分の1の価格で売られる商品が広大な売り場を埋め尽くしていた。
「日本人はなぜ、こんなに貧しい暮らしをしているのか」
—— 1972年、米国の家具店内で似鳥昭雄が涙したとされる胸中
当時の日本では、家具は「一生に一度の買い物」とされ、嫁入り道具として高額な家具をローンで購入するのが常識だった。それに対して米国では、消費者が日常的に家具を買い替え、暮らしを楽しんでいる。「日本人だって、本当はもっと豊かな住まいを楽しみたいはずだ」——その確信が、似鳥の経営哲学を決定づけた。
帰国後、似鳥は社員を集めて宣言した。「我々の使命は『住まいの豊かさを世界の人々に提供する』ことだ。日本の家庭を、米国並みに、いや米国以上に豊かにする」。この壮大なロマンが、後にニトリの企業理念として明文化される。米国で流した涙は、単なる感傷ではなかった。「世の中をこう変えたい」という、起業家の根源的な情熱の発露だったのだ。
(出典: IIJ.news「株式会社ニトリホールディングス 代表取締役会長 似鳥昭雄 氏」、財界オンライン「ニトリHD会長・似鳥昭雄の事業変革論」)
SPAモデルへの賭け——「製造物流IT小売業」という独自進化
米国視察から戻った似鳥は、価格を下げるための「仕入れの工夫」では限界があることに気づいていた。問屋から仕入れて売る——この伝統的な流通の枠組みでは、米国家具店の安さには到底太刀打ちできない。ならば、自分で作り、自分で運び、自分で売る——いわゆるSPA(製造小売)モデルへ事業を進化させる必要があった。
1980年代以降、似鳥は海外に自社工場を設立し、商品の企画・設計から自社で手がける体制を整えていく。2004年にはインドネシアに大型生産拠点を稼働させ、その後ベトナムやタイにも工場を展開。さらに自社物流網を整備し、コンテナ船による直接輸送と国内の自社配送センターを連携させた。これにより中間流通コストを削減し、米国の量販店並みの価格設定を可能にした。
似鳥はこのモデルを単なる「SPA」と呼ばず、自ら「製造物流IT小売業」と命名した。製造(自社工場)、物流(自社配送網)、IT(在庫・需要予測のシステム)、小売(直営店)——この4つを一体運営することで、競合他社が真似のできないコスト競争力を作り出した。「我々は小売業ではなく、商品をつくる会社だ」と似鳥は語る。
2008年のリーマンショック時、似鳥は値下げ攻勢に打って出た。家計が厳しい時期にこそ、ニトリの価値を示すチャンスと捉えたのだ。この時に浸透させたキャッチコピーが、誰もが知る「お、ねだん以上。ニトリ」だ。価格の安さだけでなく、価格以上の品質・デザイン・機能性を提供する——米国で号泣した28歳の青年が掲げた使命が、ついに国民的なブランドメッセージに結晶した瞬間だった。
(出典: WWD JAPAN「ニトリの似鳥会長&幹部が語った『アジア集中投資』『コロナ』『製造物流IT小売業』」、ニトリホールディングス「沿革」)
36期連続増収増益という金字塔——日本小売史に残る記録
1987年(昭和62年)、株式会社似鳥家具卸センターは社名を「株式会社ニトリ」に変更した。それから2024年3月期まで、ニトリは36期連続で増収増益を達成し続けた。バブル崩壊、アジア通貨危機、ITバブル崩壊、リーマンショック、東日本大震災、新型コロナウイルス——日本経済を揺るがした幾多の不況をすべて成長で乗り越えたのは、上場企業として極めて稀有な記録だ。
2002年に東京証券取引所第一部(現・プライム市場)に上場。2010年には持株会社制に移行し、ニトリホールディングスとして再編した。国内の店舗網を急速に広げる一方、2007年には海外1号店として米国に出店、2013年には台湾、2014年には中国に進出するなど、グローバル展開も加速した。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1967年 | 23歳の似鳥昭雄が札幌市北区に「似鳥家具店」を開業 |
| 1972年 | 「株式会社似鳥家具卸センター」設立、米国視察で号泣 |
| 1987年 | 社名を「株式会社ニトリ」に変更 |
| 2002年 | 東京証券取引所第一部上場 |
| 2007年 | 米国・ロサンゼルスに海外1号店を出店 |
| 2010年 | 持株会社制へ移行、ニトリホールディングス発足 |
| 2013-2014年 | 台湾・中国に本格進出、アジア展開を加速 |
| 2024年3月期 | 売上高8957億円・国内外800店舗超・36期連続増収増益を達成 |
2024年3月期、ニトリホールディングスの売上高は8957億円に達した。同期は急激な円安により海外仕入コストが上昇し、36期連続記録は途絶えたものの、その間に日本の小売業界で「ニトリ」というブランドは、ユニクロと並ぶ「日本発・世界級のSPA」として確立された。創業以来、似鳥が一貫して語り続けてきたのは「家具・インテリアを通じて、日本人の暮らしを豊かにする」という使命だ。米国で流した一筋の涙が、半世紀にわたる経営判断のすべてを貫く軸となった。
(出典: 流通ニュース「ニトリ/増収増益記録36期で止まるも似鳥会長『社員に感謝』」、ニトリホールディングス「売上・損益状況」)
「ロマンとビジョン」と人材育成——30年計画を立てる経営者
似鳥昭雄の経営手法でとりわけ特徴的なのが、超長期の経営計画を立てる習慣だ。1973年、創業6年目に似鳥は「30年計画」を立てた。「100店舗・売上1000億円」を30年後の目標として宣言したが、当時の年商はわずか数億円。社員も「夢物語」と笑ったという。しかし2003年——宣言から30年後——ニトリは実際に100店舗・売上1000億円を超え、計画は現実になった。
似鳥は2003年に次なる30年計画を発表した。「2032年に世界3000店舗・売上3兆円」というロマンだ。家具・インテリアという成熟産業で、これほど壮大な目標を掲げる経営者は世界でも稀だ。「夢のない経営は人を動かさない。具体的な数字で示す『ロマンとビジョン』こそが、社員を奮い立たせる」——似鳥の口癖だ。
もう一つの特徴は、「配転教育」と呼ばれる人材育成方針だ。ニトリでは新卒社員を入社後数年で複数部署にローテーションさせ、店舗・物流・商品企画・海外勤務など幅広い経験を積ませる。「一つの部署に長く留まると視野が狭くなる」「経営者を育てるには、現場のすべてを知る必要がある」という似鳥の信念に基づくものだ。社員からは「ニトリ大学」とも呼ばれ、家具業界の「人材輩出企業」として一目置かれる存在になっている。
2024年現在、似鳥は代表取締役会長としてグループを統括し、後継体制づくりに注力している。著書『運は創るもの』(日本経済新聞出版)では、引き揚げ者住宅での極貧生活、いじめ、3度の転職、家出、そして23歳での起業と、波瀾万丈の半生を率直に語っている。タイトルが象徴するように、似鳥は「運は与えられるものではなく、自分で創るものだ」と一貫して語り続けている。
(出典: 『運は創るもの ―私の履歴書』似鳥昭雄(日本経済新聞出版)、Digima News「ニトリの海外展開とはどんな会社?」)
まとめ
似鳥昭雄の軌跡は、「使命感の経営」の好例だ。1944年樺太生まれ、引き揚げ者住宅で極貧の少年時代を過ごし、3つの就職先を辞めた後、23歳で札幌に小さな家具店を開業した。1972年の米国視察で「日本の3分の1の価格」に号泣し、「日本の暮らしを豊かにする」という使命を心に刻む。その使命に貫かれた経営判断——SPAモデルへの大転換、30年単位の長期計画、配転教育による人材育成、アジア展開——が、36期連続増収増益と国内外800店舗超の事業を生んだ。
似鳥が経営者として一貫して問い続けたのは、「自分の事業は社会に何を提供しているのか」という根源的な問いだ。「お、ねだん以上。」というキャッチコピーは、単なる広告メッセージではなく、米国の家具店で流した一筋の涙から続く、半世紀の使命宣言である。


