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経営者向け 創業ストーリー

柳井正(ユニクロ)|商店街の紳士服店から世界3位へ「一勝九敗」23回の失敗が生んだ情熱

柳井正(ユニクロ)|商店街の紳士服店から世界3位へ「一勝九敗」23回の失敗が生んだ情熱

山口県宇部市の商店街にある父の紳士服店を継ぎ、「このままでは潰れる」という危機感だけを胸に1984年にユニクロ1号店を開いた男がいる。柳井正、35歳のときだ。その後の軌跡は失敗の連続だった——広島2号店の大赤字、偽造品混入、スポクロ・ファミクロの即撤退、野菜事業の失敗、ロンドン21店舗の6店舗への縮小。柳井自身が「10回挑戦して9回は失敗する」と認める「一勝九敗」の哲学は、負け続けながらも立ち向かい続けた経験から生まれた。そして2024年、ファーストリテイリングは売上高3兆1,038億円(前期比12.2%増)で世界アパレル3位に浮上した。失敗を恐れなかった男の情熱の正体を追う。

山口の商店街——「落ちこぼれ」が継いだ父の紳士服店

柳井正は1949年2月7日、山口県宇部市に生まれた。父・柳井等が経営する「小郡商事」は、宇部興産の企業城下町を背景にした商店街の紳士服店だった。地元では知られた店だったが、時代の波には逆らえなかった。高度成長期が終わり、郊外型ロードサイドショップが台頭し始めると、商店街は静かに衰退していった。

早稲田大学政治経済学部を卒業した柳井は、1971年にジャスコ(現イオンリテール)に入社したが、わずか9ヶ月で退職した。「仕事が嫌になった」というのが理由で、本人も後に「働く意味を考えていなかった」と振り返っている。その後、小郡商事に入社し、父とともに12年間店を守った。

当時の柳井の問題意識は切実だった。「商店街が消えていく。このままでは小郡商事も終わる」——洋服の青山やアオキといった郊外型紳士服チェーンの台頭を目の当たりにしながら、「自分は何か新しいことをしなければならない」と考え続けていた。

柳井が着目したのはアメリカのカジュアルウェア市場だった。GAP、リミテッドといったアメリカのSPA(製造小売業)が、安価で品質のいい普段着を大量販売して成長していた。「日本にはこういう業態がまだない。やるなら今だ」——その確信が、1984年の転換点を生んだ。

(出典: The社史「ファーストリテイリング(ユニクロ/GU)の歴史」Wikipedia「柳井正」)

1984年、広島に1号店——「恥ずかしい服」と言われたユニクロ誕生

1984年6月2日、柳井正は広島市中区の袋町裏通りに「ユニーク・クロージング・ウエアハウス(UNIQUE CLOTHING WAREHOUSE)」の1号店を開いた。ユニクロの誕生である。店の方針は明快だった——有名ブランドの商品を安価で仕入れ、セルフサービス形式(ヘルプユアセルフ方式)で大量販売する。開店初日は朝6時から行列ができ、30分で店内の商品が売り切れるほどの盛況だった。

しかし、スタートの成功はすぐに影を潜めた。当時のユニクロには2つの致命的な問題があった。第一に「ユニクロで買うのは恥ずかしい」というイメージだった。客が商品を購入後、ユニクロの袋から別の買い物袋に移し替えて持ち帰る光景が日常的に見られた。「安物の店」という烙印は、柳井にとって想定外の壁だった。

第二の問題は偽造品混入だ。有名ブランドのBASSローファーを安価に仕入れて販売していたところ、その中に偽造品が混じっていることが発覚した。店の信頼は一気に地に落ちた。この経験が、柳井に「他社ブランドへの依存はリスク」と悟らせ、オリジナル商品の自社開発へと舵を切る契機となった。

「失敗したと思ったら、すぐやり直す。失敗しても諦めなければ、それは失敗ではない」

-- 柳井正(著書『一勝九敗』より)

1985年には広島郊外にロードサイド店舗を出店し、郊外展開へと方針を転換。200坪の売り場に低価格カジュアルウェアを並べる業態が固まっていった。その後、全国各地への出店ペースを上げていき、1991年に社名を「ファーストリテイリング」に変更した。

(出典: 日経BOOKプラス「『金脈をつかんだ!』叫ぶ柳井正 ユニクロ1号店、開店秘話」Wikipedia「ユニクロ」)

失敗の連続——2号店大赤字とスポクロ・ファミクロの即撤退

柳井の失敗は1号店の問題だけではなかった。広島に開いた2号店は、柳井自身の「趣味」を色濃く反映させた結果、壮大な失敗に終わった。売り場面積の半分ほどにハンバーガーショップとビリヤード台を置いたのだ。「衣料品とエンターテインメントを組み合わせれば面白い店ができる」という発想からだったが、結果は大赤字。当時の小郡商事の年間利益が吹き飛ぶほどの損失を出した。

1997年秋、業績が軌道に乗り始めたタイミングで柳井はまた新事業に踏み込んだ。スポーツウェア専門店「スポクロ」と、婦人服・子供服を扱う「ファミクロ」だ。専用ロゴも作り、それぞれ9店舗ずつ一気に出店した。しかし結果は惨敗だった。

スポクロとファミクロは差別化に失敗しただけでなく、ユニクロ本体との自社競合を起こした。狙っていた「新規顧客の開拓」どころか、既存ユニクロ客が分散してしまったのだ。販売が予算に届かず、両業態は1998年5月——出店から約7ヶ月——で撤退を決定した。損失は計り知れなかった。

失敗事例 時期 結果・教訓
広島2号店(ビリヤード台) 1984年 年間利益が消えるほどの大赤字。「趣味で店を作ってはいけない」
偽造品混入(BASSローファー) 1984〜1986年頃 ブランド信頼失墜。自社オリジナル商品開発へ転換
スポクロ・ファミクロ 1997〜1998年 自社競合が発生し約7ヶ月で撤退。各業態9店舗が無駄になる

柳井は後に「スポクロ・ファミクロの失敗は、自分たちが何者かを分かっていなかった失敗だ」と語っている。事業の本質を見失って多角化に走ることの危険性を、身銭を切って学んだ体験だった。

(出典: ダイヤモンド・チェーンストア「ビジネスは『一勝九敗』」びじぱぱノート「柳井正『一勝九敗〜ユニクロも失敗ばかりだった』」)

フリースの旋風と崩壊——1998年の奇跡と2002年の大失速

スポクロ・ファミクロを撤退した1998年、ユニクロは全く別の方向でヒットを生む。フリースだ。「ユニクロのフリース。1900円」というシンプルなポスター1枚で展開したキャンペーンは、社会現象となった。2〜3万枚売れれば大ヒットと言われていた時代に、1998年は約200万枚を完売。1999年には850万枚に急拡大し、2000年には51色展開で2,600万枚という前人未到のセールスを記録した。

フリース旋風は会社全体を別次元に押し上げた。2001年8月期の売上高は2年前比で約4倍の4,185億円、営業利益は7倍の1,020億円に達した。純利益率15%超という驚異的な数字で、ファーストリテイリングは一躍日本のアパレル業界の覇者となった。

「成長というよりも膨張だった。うちは一時的な流行に乗っていたにすぎなかった」

-- 柳井正(著書『一勝九敗』より)

しかしブームは2年で終わった。2002年8月期、売上高は前期比18%減、営業利益は半減した。「フリースのユニクロ」というイメージが固定化し、フリース以外の商品は売れず、客足は遠のいた。柳井は事態を「うちは一時的な流行に乗っていたにすぎなかった」と自己批判した。

追い打ちをかけたのが新規事業の失敗だ。業績不振を打開しようと2002年に始めた野菜・果物の販売事業(国内農家との直接契約による流通販売)は、アパレルとのシナジーが全くなく、翌2003年6月に撤退を決定した(最終的な累計損失は約26億円)。2002年には自動車メーカー・タカラと組んだ一人乗り電気自動車「Q-CAR」の計画も白紙撤回された。「一勝九敗」という書名の本を2003年に出版したのは、まさにこの暗黒期を経て生まれた言葉だった。なお本書の中で柳井は、自らが経験した23の事業上の失敗を詳細に振り返っており、タイトル・リード文に記した「23回の失敗」はこの著書に由来する。

(出典: ダイヤモンド「ユニクロ『ヒートテック』15億枚ヒットのワケ」日経ビジネス「失敗こそ成長の源、ユニクロ・柳井氏が歩んだ道」)

海外展開の挫折——ロンドン21店舗が6店舗へ縮小

フリースブームの絶頂期に当たる2001年、ユニクロは初めての海外進出としてイギリス・ロンドンに出店した。「3年で50店舗」という野心的な計画を掲げ、郊外型ショッピングモールへの出店を加速させた。しかし現実は計画とはかけ離れていた。

ロンドンでの失敗は多重構造だった。第一に、日本でのSPA(製造小売業)のノウハウが海外の現場に伝わらなかった。「商売の原点が見失われ、すべての面にわたって甘かった」と柳井は振り返っている。第二に、50店舗という数値目標が「独り歩き」してしまった。明確な勝ち筋を見いだせないまま、数を増やすことが目的化したのだ。

結果、21店舗まで拡大したロンドン事業は2004〜2005年にかけて6店舗へと縮小された。撤退ではなく「選択と集中」と表現されたが、実態は大幅な計画変更だった。

「目標の数字が一人歩きしていた。勝てる場所・勝てる方法を考えずに出店した。それが根本的な誤りだった」

-- 柳井正(日経ビジネスインタビューより)

この失敗が、後のグローバル戦略の根本を変えた。郊外の小型店舗を多数出すのではなく、一等地に1,000坪規模の旗艦店を構え、ブランドイメージを確立してから周辺展開するという戦略へと転換したのだ。2005年の香港出店がその新戦略の第一号となり、成功を収めた。2006年にはニューヨーク、パリへと旗艦店を展開し、グローバルブランドとしての基盤を固めていく。

(出典: 日経BOOKプラス「ユニクロ 苦戦する海外店舗、撤退寸前からの反転攻勢」The社史「ファーストリテイリングの歴史」)

SPA転換とヒートテック——「負けない商品」を自社で作る

柳井が仕込んでいた本当の武器は、フリースよりもずっと前から育てていた。1987年、柳井は有名ブランドの仕入れ販売モデルから脱却し、中国の工場と直接契約してオリジナル商品を製造し始めた。米GAPが先行していたSPA(Specialty store retailer of Private label Apparel=製造小売業)というビジネスモデルを、日本で本格的に実践した初めての企業がファーストリテイリングだった。

1995年、中国4社との委託生産契約が整い、SPAの形が完成した。商品の企画から製造、販売までを一手に担うことで、仕入れコストを下げながら品質をコントロールできる。これが「安くて良い服」という命題への、構造的な回答だった。

さらに1998年、柳井は素材メーカー・東レに直談判し、戦略素材の共同開発をスタートさせた。「機能性素材を自社で持てれば、他社には真似できない商品ができる」——この確信から生まれたのが、2003年発売のヒートテックだ。東レの蓄熱保温繊維とユニクロの販売力が組み合わさったヒートテックは、以後累計15億枚超を販売するモンスター商品となった。

商品・施策 発売・実施年 成果
SPA(中国直接生産) 1987〜1995年 低価格・高品質の両立。日本初の本格SPA確立
フリース(1,900円) 1998〜2000年 2,600万枚販売。全国的認知を獲得
東レとのヒートテック 2003年(東レとの提携は1998年) 累計15億枚超。エアリズム、ウルトラライトダウンへと展開
香港旗艦店(新グローバル戦略第一号) 2005年 海外初の成功。一等地旗艦店戦略の原点

(出典: ファーストリテイリング公式「ファーストリテイリングについて」ダイヤモンド「ヒートテック15億枚ヒットのワケ」)

世界3位への到達——「一勝九敗」が生んだ3兆円企業

ロンドンの失敗から戦略を修正し、香港・ニューヨーク・パリへと旗艦店を構えたユニクロは、2010年代以降に急加速した。中国・東南アジア市場での爆発的な店舗展開、グローバル規模でのSPA運営、ヒートテック・エアリズム・ウルトラライトダウンといった機能性商品の世界的普及——これらが重なり、売上高は2010年代後半から2020年代にかけて一気に伸長した。

2024年8月期、ファーストリテイリングの売上収益は3兆1,038億円(前期比12.2%増)で過去最高を更新した。全世界の店舗数は3,595店舗(2024年8月期)に達し、2025年8月期末には3,698店舗を見込む。

世界アパレル市場では、インディテックス(スペイン、ザラを展開、約5兆8,000億円)、H&M(スウェーデン、約3兆3,000億円)に次ぐ世界第3位のポジションを確立している。「H&Mとの差はわずか」とされており、業界関係者の間では「遠くない将来に2位になる可能性がある」と見られている。

「失敗しても諦めなければ、それは失敗ではない。諦めた瞬間が本当の失敗だ」

-- 柳井正

山口の商店街の紳士服店から世界3位まで。その道のりには、10回中9回の失敗があった。野菜事業の撤退も、ロンドンの縮小も、スポクロ・ファミクロの即撤廃も——全て「一勝」への布石だった。

(出典: FASHIONSNAP「国内アパレル関連大手13社の売上高ランキング 2024年度版」ファーストリテイリング「業界でのポジション」)

まとめ

山口の商店街の紳士服店を継いだ柳井正は、1984年に広島でユニクロ1号店を開いた。初日の大盛況は偽造品混入と「恥ずかしい店」というイメージ問題に打ち消され、2号店のビリヤード台は年間利益を吹き飛ばした。スポクロ・ファミクロは約7ヶ月で撤退し、フリースブームの後には野菜事業が最終的に約26億円の累計損失を出し、ロンドン21店舗は6店舗へ縮小した。

それでも柳井は止まらなかった。失敗のたびに「なぜ負けたか」を分析し、次の勝ち筋を更新し続けた。東レとの共同開発でヒートテックを生み、一等地旗艦店戦略でグローバル展開を軌道に乗せ、2024年には売上高3兆1,038億円・世界3位のアパレル企業を作り上げた。

この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

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