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経営者向け 創業ストーリー

山田昇(ヤマダ電機創業者)の経歴|妻と2人・8坪の電気屋から「死ぬ気でやる」50年で売上1兆円

山田昇(ヤマダ電機創業者)の経歴|妻と2人・8坪の電気屋から「死ぬ気でやる」50年で売上1兆円

1973年(昭和48年)、群馬県前橋市。日本ビクター(現JVCケンウッド)に10年勤めた30歳の山田昇(やまだ・のぼる)は、妻と二人で8坪(約26平方メートル)の家電店「ヤマダ電化サービス」を構えた。松下電器産業(現パナソニック)の系列店として街角に小さく灯った看板は、その後50年で、日本の家電量販業界そのものを書き換える起点となる。2005年、ヤマダ電機は家電専門量販店として日本で初めて売上高1兆円を突破。2010年には2兆円を超え、北関東の小さな電気屋は、コジマ・ケーズデンキとの価格戦争を勝ち抜き、国内最大手家電量販チェーンへと駆け上がった。創業から50年経った2023年、80歳の山田は経済誌のインタビューで言い切った——「今も死ぬ気でやってますよ」。半世紀にわたり同じ言葉を公言し続けた経営者の物語だ。

宮崎の地方公務員家庭から日本ビクターへ——10年で見切った「年功序列」

山田昇は1943年(昭和18年)2月11日、宮崎県宮崎郡佐土原町(現・宮崎市)に生まれた。地方の家庭で育ち、戦後の高度経済成長期に多感な時期を過ごした昭和の典型的な少年だった。学校を卒業すると、当時の有名電機メーカーの一つだった日本ビクター(現JVCケンウッド)に1966年に入社。サラリーマン人生をスタートさせた。

だが10年勤め上げる中で、山田は組織への違和感を強めていく。後年のインタビューで彼はこう語っている——「合っていないな。年功序列だし、一所懸命にやっても報われなかった。能力評価してもらえなかった」。当時の日本企業は終身雇用と年功序列が当たり前で、若手社員がどれだけ実績を上げても、決まった昇給ペースから逸脱することは難しかった。働けば働くほど報われる手応えが欲しい——その想いが、山田を独立へと押し出した。

独立を決意した時、長男はまだ妻のお腹の中にいた。家族を養うリスクを背負っての退社だ。それでも山田はビクター時代に得た家電業界の知識と人脈を武器に、自分の力で評価される世界に飛び込むことを選んだ。30歳という若さで、安定した大企業を捨てて家電店主になる——周囲から見れば「無謀」な決断だった。

(出典: Wikipedia「山田昇 (実業家)」財界オンライン「ヤマダHD会長兼社長山田昇の人材育成論」

1973年、前橋市に「8坪・夫婦2人」の家電店を開業

1973年、山田昇は群馬県前橋市に「ヤマダ電化サービス」を開業した。店舗面積はわずか8坪(約26平方メートル)。夫婦2人で切り盛りする、典型的な「街の電気屋さん」だった。松下電器産業(現パナソニック)の系列店としての契約を結び、ナショナル製品を主力に扱った。

当時の街の電気屋は、全国にあふれかえる存在だった。テレビ・冷蔵庫・洗濯機といった「三種の神器」が家庭に普及し終え、ステレオ・エアコン・電子レンジへと需要が広がっていた高度成長期後半。系列店は「町内で買えば修理もすぐ来てくれる」という近接性が武器だった。山田もまた、販売だけでなく修理・引き取り・廃棄まで一貫して請け負う「地域密着の電気屋」として、近隣顧客を一軒一軒つかんでいく地道な日々から始めた。

創業当初から山田が掲げたスローガンは「創造と挑戦」だった。8坪の店から始める男が「創造」と「挑戦」を口にする——大言壮語に聞こえるかもしれないが、これは単なるキャッチコピーではなかった。サラリーマン時代に「報われない」と感じた怒りに近い情熱が、独立後の彼を駆動した。

創業から5年後の1978年、ヤマダ電化サービスは5店舗を展開し、年商6億円を突破した。1人の「街の電気屋」が、わずか5年で複数店舗を持つ小規模チェーンに育っていた。この急成長の裏には、山田の「死ぬ気でやる」という言葉通りの、文字通り寝食を惜しんだ働きがあった。

(出典: ヤマダデンキ採用情報「ヤマダの生い立ち」JAFCO「『町の電器屋』から『国内最大手の家電量販店』へ」

北関東価格戦争——コジマ・ケーズデンキとの「血を流す」競争

1983年(昭和58年)、山田は「株式会社ヤマダ電機」を正式に設立。系列店としての枠を超え、量販店としての本格的なチェーン展開を始めた。だが時を同じくして、北関東の地で家電量販の「三国時代」が始まる。栃木県のコジマ、茨城県のケーズデンキ、そして群馬県のヤマダ電機——いずれも地方都市発の家電量販店が、互いの商圏に攻め込み、激しい価格競争を繰り広げた。

「死ぬ気でやる」

—— 山田昇が創業以来50年以上、社内外で公言し続けた言葉

北関東価格戦争は「血を流す競争」と呼ばれた。「安値日本一」を掲げ、競合店の価格を下回ることを至上命題とする看板。仕入先を直接叩く価格交渉。店舗の大型化と郊外ロードサイドへの展開。広告チラシの大量投下。一方の値下げは、瞬く間に他の2社の値下げを呼び、利益率は限界まで圧縮された。だが山田は怯まなかった——「死ぬ気でやる」という言葉通り、ヤマダ電機は出店ペースを緩めず、競合の本拠地である栃木・茨城にも積極的に出店を続けた。

この戦いの中で山田が磨いたのが、POSシステムの早期導入自社物流網の構築だ。販売データをリアルタイムで集約し、売れ筋を即座に補充する。物流を内製化することで、店舗在庫を最小化しつつ機会損失を防ぐ。「徹底したローコスト経営」——競合との価格戦争を勝ち抜くために、コスト構造そのものを一から作り直したのだ。

1989年に株式の店頭公開、1994年に総合保守サービス「The安心」を開始し、価格だけでなくアフターサービスでも顧客を囲い込む戦略を打ち出した。1997年には売上高1,000億円を達成。地方発の小さな電気屋が、北関東を制し、全国チェーン化への足場を固めていった。

(出典: Wikipedia「山田昇 (実業家)」ヤマダデンキ「ヤマダの生い立ち」

2005年、専門量販店として日本初の売上1兆円達成

2000年(平成12年)、ヤマダ電機は東京証券取引所市場第一部に上場。北関東の地方企業から、全国を視野に入れる東証一部企業へと変貌を遂げた。そして2005年、ヤマダ電機は日本の小売業界に決定的な一線を引く。家電専門量販店として日本で初めて、売上高1兆円を突破したのだ。当時の家電流通市場が約8兆円規模だったから、1社で1割強のシェアを占める計算になる。「街の電気屋」から始まったヤマダが、業界の盟主となった瞬間だった。

1兆円達成の翌2006年、ヤマダは都市型大型店「LABI(ラビ)」1号店を池袋にオープン。「家電は郊外ロードサイド」というそれまでのヤマダのDNAを意図的に裏切り、都心駅前という最激戦区に踏み込んだ。ライバルだったビックカメラ・ヨドバシカメラの本丸へ、群馬発のヤマダが正面切って攻め込んだ形だ。

さらに快進撃は止まらない。2010年には売上高2兆円を達成。創業から37年、株式会社化から27年で、地方の小規模電気店が2兆円企業へと成長した。同年、山田は経済誌のインタビューで「家電だけでは2兆円が限界。次は『暮らし』を売る」と宣言。住宅・家具・リフォーム・スマートハウス・電気自動車へと、事業領域を家電の枠を超えて拡大していく「くらしまるごと戦略」の構想を明らかにした。

2011年には住宅メーカー「エス・バイ・エル」を子会社化。2012年には九州の家電量販大手「ベスト電器」を子会社化し、全国カバレッジを完成させた。2019年には経営危機にあった大塚家具を傘下に迎え入れる。「電気屋」の看板の下に、住宅・家具・自動車までを束ねる総合流通グループが生まれた。

(出典: ヤマダホールディングス「あゆみ」J-marketing.net「ヤマダ電機 家電流通市場の寡占化」

「死ぬ気でやる」50年——80歳でも現役、創業者が語る情熱の正体

急成長は常に順風だったわけではない。2013年(平成25年)、ヤマダ電機は2期連続の減収減益に陥った。エコポイント特需の反動、家電需要の頭打ち、ネット通販との競合——複数の逆風が同時に襲ってきた。山田は全役員の役職を引き下げ、自ら社長に復帰するという荒療治を断行。「他人事ではなく、自分が前線に出る」という創業者ならではの決断だった。

2016年に一度社長を後任に譲るものの、その後も会長兼CEOとして経営の中枢に居続けた。80歳を超えた現在も現役の経営トップとして、毎日経営判断に関わる。2023年、創業50周年を迎えたインタビューで山田は言った——「今も死ぬ気でやってますよ」。創業時から50年、変わらぬ言葉だった。

主な出来事
1973年 群馬県前橋市で8坪の「ヤマダ電化サービス」を夫婦2人で開業
1978年 5店舗・年商6億円突破
1983年 株式会社ヤマダ電機を設立、大型店舗展開を開始
1989年 株式店頭公開
1997年 売上高1,000億円達成
2000年 東京証券取引所市場第一部上場
2005年 家電専門量販店として日本初の売上高1兆円達成
2006年 都市型店舗「LABI」1号店を池袋に開設
2010年 売上高2兆円達成
2011年 住宅メーカー・エス・バイ・エルを子会社化、「くらしまるごと」戦略本格化
2019年 大塚家具を子会社化
2020年 持株会社制「ヤマダホールディングス」体制へ移行
2023年 創業50周年。80歳の山田が「今も死ぬ気でやってますよ」と発言

「死ぬ気でやる」は単なる根性論ではない。山田にとっては「報われない年功序列」を見限って独立した30歳の自分への約束だ。能力を尽くせばその分だけ結果が返ってくる——その手応えを得るために、彼は自分の店を、自分のチェーンを、自分の判断で動かし続けた。創業者だけが背負える責任感が、80歳の今も「死ぬ気」を駆動している。

(出典: 日経ビジネス「ヤマダHD・山田会長兼社長 創業50年『今も死ぬ気でやってますよ』」財界オンライン「ヤマダHD会長兼社長山田昇の人材育成論」

まとめ

山田昇の50年は、「死ぬ気でやる」という一つの言葉に貫かれている。日本ビクターで10年勤め「年功序列で報われない」と見限り、長男誕生間近の1973年、群馬県前橋市に8坪・夫婦2人の家電店を構えた。創業5年で5店舗・年商6億円へ。1983年の株式会社化以降は、コジマ・ケーズデンキとの北関東価格戦争を勝ち抜き、POS導入と自社物流で「徹底したローコスト経営」を確立した。

そして2005年、家電専門量販店として日本で初めて売上1兆円を達成。2010年には2兆円を超え、ベスト電器・大塚家具・住宅メーカーまでを傘下に収める「くらしまるごと」グループへと進化した。80歳を超えた今も、山田は「今も死ぬ気でやってますよ」と言い切る。創業時の覚悟を半世紀貫いた経営者の言葉は、規模に関係なく今日の中小企業経営者に響く。

参考資料

この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

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