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12件の記事

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POP吉村(ヨシムラジャパン)|素手で削るエンジンと「世界初の集合マフラー」——零戦整備士が世界を獲った異常な情熱

吉村秀雄は1922年(大正11年)11月10日、福岡県朝倉郡に生まれた。少年時代から機械いじりが好きで、近所の自転車屋に出入りしては部品を分解しては組み立て直していた。「動くものの仕組みを知りたい」——この子供じみた好奇心が、彼の生涯を貫く軸となった。

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アニタ・ロディック(The Body Shop)|葬儀屋に挟まれた一号店、苦情を全国報道に変えた「異常な情熱」

1976年3月27日、英国南海岸の保養地ブライトン。33歳のアニタ・ロディック(Anita Roddick)は、夫が南米横断旅行に出かけている間に家計を支えるため、たった1店舗の小さな化粧品店「The Body Shop」を開業した。資金は銀行から借りた4000ポンド。物件は2軒の葬儀屋に挟まれた場

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鈴木孝之(ウエルシア薬局)|15坪の薬局に化粧品と酒を並べた男、余命宣告の病床から1兆円企業の未来を託した執念

1965年12月、埼玉県春日部市。明治薬科大学を卒業した一人の薬剤師が、わずか15坪の小さな薬局を開いた。男の名は鈴木孝之(すずき・たかゆき)。当時の薬局は処方薬と一般薬を売るだけの「待つ商売」だったが、彼の発想は当時の常識からかけ離れていた。「薬局に化粧品も酒も日用品も並べれば、調剤の待ち時間に楽

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滝崎武光(キーエンス)|2度の倒産を経た尼崎の高卒起業家が築いた営業利益率50%超・時価総額10兆円の異端モデル

1974年、兵庫県尼崎市。2度の起業失敗を経験した29歳の滝崎武光(たきざき・たけみつ)は、3度目の挑戦として「リード電機」を立ち上げた。学歴は兵庫県立尼崎工業高校卒。慶應・東大の名門エリートではなく、町工場が密集する尼崎で電気と向き合い続けた職人の道だ。それから半世紀後の2024年3月期、彼が育て

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ニコラ・テスラ|睡眠2時間で交流電流を証明し「電流戦争」でエジソンに勝った発明家の異常な情熱

1884年、米ニューヨーク。ポケットにわずか4セントと「あるアイデア」が書かれた紙片だけを持って上陸した一人の若き移民がいた。ニコラ・テスラ(Nikola Tesla、1856-1943)——後に「現代の電気文明を発明した男」と称される人物だ。彼が紙に書き留めていたのは、当時の電気工学を根底から塗り

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鳥井信治郎(サントリー創業者)|「やってみなはれ」周囲全員が反対した赤玉ポートワインとウイスキー国産化に賭けた男

1923年(大正12年)、京都府乙訓郡山崎村。鳥井信治郎(とりい・しんじろう、当時44歳)は、湿潤な気候と良質な水に恵まれたこの地で、日本初の本格ウイスキー蒸溜所の建設に取りかかった。総工費は当時の金額で200万円——現在の貨幣価値に換算すれば数十億円規模の途方もない投資だ。社内の役員も、銀行家も、

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豊崎賢一(スシロー)|セントラルキッチン全廃・店内調理に賭けた職人社長の異常な情熱

1984年10月、大阪府豊中市。辻調理師専門学校を卒業したばかりの19歳の青年が、「鯛すし」を母体に立ち上がったばかりの回転寿司「すし太郎」(後の「スシロー」)に職人として加わった。名は豊崎賢一(とよさき・けんいち)。徳島県生まれ、当時の彼はまだ一介の寿司職人に過ぎなかった。しかしこの男が、後に業界

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土屋嘉雄(ベイシアグループ)|妻と2人の衣料店から、M&Aなし自力成長で1兆円グループを築いた群馬の小売王

1958年(昭和33年)、群馬県伊勢崎市。江戸時代から続く埼玉・深谷の「いせや呉服店」を継がず、26歳の土屋嘉雄(つちや・よしお)は妻と二人で衣料品店「いせや」を独立開業した。この小さな店が、後にベイシア(スーパーマーケット)、カインズ(ホームセンター)、ワークマン(作業服)、セーブオン(コンビニ)

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山田昇(ヤマダ電機創業者)の経歴|妻と2人・8坪の電気屋から「死ぬ気でやる」50年で売上1兆円

1973年(昭和48年)、群馬県前橋市。日本ビクター(現JVCケンウッド)に10年勤めた30歳の山田昇(やまだ・のぼる)は、妻と二人で8坪(約26平方メートル)の家電店「ヤマダ電化サービス」を構えた。松下電器産業(現パナソニック)の系列店として街角に小さく灯った看板は、その後50年で、日本の家電量販

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山葉寅楠(ヤマハ)|オルガン1台を箱根越え250km徒歩で運んだ男が築いた「楽器の街・浜松」

1887年(明治20年)夏、静岡県浜松。山葉寅楠(やまは・とらくす、1851-1916)は、自ら完成させたばかりのオルガンを天秤棒で担ぎ、相棒の河合喜三郎と二人で東京を目指して歩き始めた。距離およそ250キロメートル。鉄道網がまだ十分に整っていない時代、最大の難所は箱根の峠だった。木製の重い楽器を山

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山本善政(ハードオフ)|売上半減から「下取り品が売れる」と気づいた瞬間、リユース業を1000店舗に育てた新潟発の挑戦

1993年(平成5年)2月11日、新潟市紫竹山。山本善政(やまもと・よしまさ)は、自ら立ち上げた新業態の1号店「ハードオフ新潟紫竹山店」のオープン日を迎えていた。20年余り守り続けたオーディオ専門店「サウンド北越」がバブル崩壊で売上半減。倒産寸前の中、最後の賭けで挑んだのが「中古オーディオの買取販売

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山内溥(任天堂)|22歳の3代目社長が花札メーカーを世界的ゲーム企業に変えた「ハードはソフトのドレイ」の哲学

1949年、京都。早稲田大学法学部に通っていた22歳の山内溥(やまうち・ひろし)は、祖父・山内積良の急逝の報を受けて大学を中退し、家業である任天堂骨牌(こっぱい)の3代目社長に就任した。花札とトランプを製造する小さな京都の老舗——それが、後に世界のゲーム業界を支配する「任天堂」の出発点だ。就任直後、