豊崎賢一(スシロー)|セントラルキッチン全廃・店内調理に賭けた職人社長の異常な情熱
1984年10月、大阪府豊中市。辻調理師専門学校を卒業したばかりの19歳の青年が、「鯛すし」を母体に立ち上がったばかりの回転寿司「すし太郎」(後の「スシロー」)に職人として加わった。名は豊崎賢一(とよさき・けんいち)。徳島県生まれ、当時の彼はまだ一介の寿司職人に過ぎなかった。しかしこの男が、後に業界の常識を真正面から覆していくことになる。2004年、業界がこぞって採用していたセントラルキッチンを全面廃止。「コストが下がる」と言われた仕組みを捨て、コストも手間もかかる店内調理へ全店を切り替えた。さらに原価率を業界の常識をはるかに上回る約50%に設定し、「うまいすしを、腹いっぱい」という理念のもと、ネタの品質に妥協を許さなかった。結果、スシローは2011年から3年連続で回転寿司業界売上高No.1を達成。現在は親会社FOOD & LIFE COMPANIESとして、グループ売上高3000億円超のグローバル外食企業へと成長した。「大手3社の中で社長が寿司職人なのはスシローだけ」と語られた、職人魂むき出しの経営者の物語を辿る。
1965年徳島生まれ、辻調理師専門学校から「鯛すし」へ
豊崎賢一は1965年(昭和40年)2月、徳島県に生まれた。高度経済成長期の真っ只中、日本が世界第二位の経済大国へと駆け上がる時代に育った世代だ。大阪万博に湧き、外食産業が大衆化していく時代——そんな環境で青年期を迎えた豊崎は、料理の道を志す。
進学先に選んだのは、関西を代表する料理人養成校・辻調理師専門学校だった。和食・洋食・中華を本格的に学べる名門であり、卒業生は全国の名店へと巣立っていく。豊崎が辻調を選んだ理由には、若い頃から「自分の手で人を喜ばせたい」という想いがあったと伝えられる。
1984年4月、調理学校を卒業した豊崎は、大阪・阿倍野の寿司屋「鯛すし」に入社した。江戸前を基本としつつも、関西の味わいを取り入れた地域密着型の寿司店だ。新人職人として、シャリの炊き方、酢の調合、魚の捌き方、握りの所作——寿司職人の基本をここで叩き込まれた。豊崎の経営観の根っこにある「シャリは人肌、ネタは切り立て、寿司は握り立て」という哲学は、この修業時代に身体に刻まれたものだ。
同じ1984年、鯛すしの経営陣が新業態に乗り出す。それが大阪府豊中市にオープンした立ち食い回転寿司「すし太郎」だった。1号店は1984年6月、株式会社すし太郎の設立は同年10月。豊崎はこの新業態に若手職人として参加することになる。寿司職人として高級店で腕を磨くのではなく、回転寿司というまだ新興の業態に身を投じる——その選択が、後の人生を大きく変える分岐点となった。
(出典: CEO V-NET「うまいすしを - 株式会社あきんどスシロー 豊崎賢一」、Wikipedia「あきんどスシロー」)
1984年「すし太郎」から始まる回転寿司一筋の職人人生
「すし太郎」が誕生した1980年代半ば、回転寿司業界は急速に拡大していた。一皿100円という分かりやすい価格設定、子ども連れの家族が気軽に入れる雰囲気、ベルトコンベアの楽しさ——回転寿司は「庶民の寿司」として日本の食卓に根を張りつつあった。だが同時に、業界には根深い問題もあった。「安かろう悪かろう」という消費者の冷ややかな目線である。
創業者の清水義雄は、この業界イメージを打破したいと考えていた。問屋を経由せず水産会社から直接仕入れることで、価格を抑えつつ品質を確保する——スシローの仕入れ哲学はこの時期に芽生えた。そして豊崎賢一は、この理念を現場で実装していく若き職人として、店頭に立ち続けた。
豊崎にとって回転寿司は「妥協の場」ではなかった。「回転寿司であっても、一般のお寿司屋さんと同じでなければならない」——これが彼の根底にある信念だった。江戸前の高級店で味わえる「人肌のシャリ」「切り立てのネタ」「握り立ての温度感」を、なぜ一皿100円の世界で諦めなければならないのか。豊崎はこの問いを職人として、そして後に経営者として抱き続けることになる。
1996年9月、すし太郎は一皿100円均一の店舗を出店。1999年8月には豊中市と吹田市の2つの株式会社すし太郎が合併し、2000年12月には商号を株式会社あきんどスシローへと変更した。同じタイミングで、豊崎は取締役に就任する。職人として入社した若者が、経営の意思決定に関わる立場へと駆け上がった瞬間だった。
2004年、業界の常識「セントラルキッチン」を全面廃止する異常な決断
豊崎賢一の名を業界に知らしめた最大の決断は、2004年に下された。セントラルキッチンの全面廃止である。当時、外食チェーンにとってセントラルキッチン(CK)はほぼ常識だった。工場で一括して食材を加工し、各店舗にはほぼ完成品を配送する——人件費を抑え、品質をブレなく揃え、店舗オペレーションを単純化できる。著名なコンサルタントの多くが「チェーン展開にCKは不可欠」と説いていた。
「セントラルキッチンを通すと、寿司の味が落ちる。ならば、廃止する」
—— 豊崎賢一が貫いた経営判断(2004年)
しかし豊崎の目には、別の現実が映っていた。CK経由のネタは、店舗で切り立てを提供する場合と比べて、明らかに鮮度が落ちる。シャリも工場で炊いて運ぶと、店内で炊き立てを使う場合の「人肌の温度感」が失われる。データも厳しい現実を突きつけていた。CK方式を採用した時期、スシローの売上はむしろ減少していたのだ。「お客様は、味の違いを敏感に感じ取っている」——豊崎はそう確信した。
2004年2月、本社内のセントラルキッチンは全廃された。代わりに各店舗の厨房で、ネタを切り、シャリを炊き、寿司を握る——いわゆる「店内調理」への完全回帰である。業界のコンサルタントは「逆行している」「コスト構造が崩壊する」と批判した。だが豊崎は譲らなかった。コストと手間が増えるのは事実だが、それを補って余りある「うまさ」が客足を呼び込むはずだ——その仮説に経営を賭けたのだ。
結果は明確だった。店内調理に切り替えた店舗では、顧客満足度と来店頻度がともに上昇。スシローは業績を急回復させ、その後の業界首位への道を切り開いた。「業界の常識を疑い、職人の感覚を信じる」——この一点こそが、豊崎賢一を凡百のチェーン経営者と分かつ異常な情熱の核だった。
(出典: 頭の上にミカンをのせる「回転ずし業界一位のスシローはセントラルキッチンを2004年から廃止した」、東洋経済オンライン「"お家騒動"克服「あきんどスシロー」に学ぶ再生術」)
原価率約50%という狂気——「安くてうまい」の本気度
豊崎が貫いたもう一つの異常なカラクリが、原価率の高さだ。一般的な外食チェーンの原価率は30%前後、優良企業でも35%程度に収まることが多い。これを超えると利益が出ないというのが業界の常識である。だが豊崎は、スシローの原価率を約50%に設定し続けた。これは外食産業の常識から見れば狂気じみた水準だ。
「何でもいいって訳じゃない。うまいだけでもダメ。安くてうまいがモットー」——豊崎は2011年のテレビ東京「カンブリア宮殿」出演時にもこう語っている。105円という低価格を維持しながら、原価率50%。これは、利益を圧縮してでもネタの質を落とさないという、経営者としての腹のくくり方を意味する。一皿の利益は薄い。だがそのぶん回転率と客単価で勝負する——スシローの収益モデルは、こうして「品質に振り切る」方向で組み立てられた。
仕入れの現場でも、豊崎の職人としての目利きが効いた。築地・豊洲をはじめ全国の漁港から、産地直送でネタを調達する仕組みを整え、季節ごとに最も状態のいい魚を見極めて発注する。マグロは「日本トップクラスの消費量を誇る回転寿司チェーン」と言われるほどの量を仕入れ、国際的なマグロ規制議論には早くから危機感を表明していた。
「鍛えられた目利きで、食材に対する妥協を許さない」——大手外食3社のうち、社長自身が寿司職人なのはスシローだけだった。経営の数字と現場の感覚が一人の頭の中で結ばれている——この極めて稀な経営者の特性こそが、原価率50%という「異常」を可能にした背景だ。
(出典: テレビ東京「カンブリア宮殿 2011年2月17日放送 あきんどスシロー 豊崎賢一」、日経ビジネス「豊崎 賢一[あきんどスシロー社長]」)
2009年社長就任から業界首位、グローバル外食企業への飛躍
店内調理への回帰と原価率50%の高品質路線が結実するのは、2000年代後半以降だ。2007年には創業者一族と投資ファンドの間で経営権をめぐる動きがあり、豊崎はこの時、創業者・清水義雄と協力してユニゾン・キャピタルへの株式売却によって対抗策を講じた。一介の職人として入社した男が、経営の修羅場をくぐる立場にまで成長していた。
2009年6月、豊崎賢一は代表取締役社長に就任する。1984年に職人として「すし太郎」に加わってから、実に25年。回転寿司一筋で歩んできた男が、ついに業界トップ企業の経営の頂点に立った。社長就任後の豊崎は、店内調理と原価率50%の路線をさらに徹底し、「うまいすしを、腹いっぱい」のスローガンを社内外に浸透させていく。
| 年 | 主な出来事 |
|---|---|
| 1965年 | 徳島県で豊崎賢一誕生 |
| 1984年4月 | 辻調理師専門学校を卒業、「鯛すし」に入社 |
| 1984年10月 | 回転寿司「すし太郎」(後のスシロー)に職人として参加 |
| 2000年12月 | 商号を「株式会社あきんどスシロー」に変更、取締役就任 |
| 2002年 | 世界初の回転すし総合管理システムを開発 |
| 2004年2月 | セントラルキッチンを全面廃止、店内調理へ完全回帰 |
| 2009年6月 | 豊崎賢一が代表取締役社長に就任 |
| 2011〜2013年 | 回転寿司業界売上高3年連続No.1を達成 |
| 2015年 | 国内400店舗を突破 |
| 2021年 | 持株会社FOOD & LIFE COMPANIESへ移行 |
2011年から2013年にかけて、スシローは回転寿司業界売上高3年連続No.1を達成。長年業界のトップを争ってきた他チェーンを抜き去り、文字通り「日本一の回転寿司」となった。2002年に開発した世界初の回転すし総合管理システムや、レーンを流れる皿のデータを蓄積するIT基盤も、店内調理の手間を補う武器として機能した。職人の感覚とITの定量化を両輪で回す——豊崎の経営手法は「職人魂とテクノロジーの融合」と評された。
2021年には持株会社化し、社名をFOOD & LIFE COMPANIESへ。グループ売上高は3000億円を超え、海外にも積極展開する外食グローバル企業へと成熟した。1984年に大阪の小さな立ち食い回転寿司から始まった事業が、東アジアを中心に多店舗を展開する企業群へと育った——その軌跡の中心には、常に豊崎賢一の「うまいすしを腹いっぱい」という揺るぎない哲学があった。
まとめ
豊崎賢一の軌跡は、「職人の感覚で業界の常識を疑う」一人の男が、回転寿司の世界を作り変えた稀有な事例だ。1984年、19歳で「すし太郎」(後のスシロー)に職人として参加した豊崎は、2000年に取締役、2009年に代表取締役社長に就任した。彼が下した最大の決断は、2004年のセントラルキッチン全廃と店内調理への完全回帰、そして原価率約50%という業界常識を超える品質への投資だった。
その結果、スシローは2011年から3年連続で回転寿司業界売上高No.1を達成し、現在はFOOD & LIFE COMPANIESとしてグループ売上高3000億円超のグローバル外食企業へ成長した。「うまいすしを、腹いっぱい」というシンプルなスローガンの裏には、薄利を選んでも品質を譲らないという覚悟と、五感とデータの両方で経営を判断するという職人社長の哲学があった。


