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ミルトン・ハーシー(Hershey's)|3度の倒産、成功中のキャラメル工場を100万ドルで売却し全てチョコにベットした男の情熱
1893年、シカゴ。ペンシルベニア州ランカスターから一人の菓子職人が世界博覧会(コロンビア万博)の会場に立っていた。ミルトン・スネイバリー・ハーシー(Milton Snavely Hershey、1857〜1945)、当時36歳。彼はそこで運命の機械に出会う——ドイツ製のチョコレート製造機だ。フィラ
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1893年、シカゴ。ペンシルベニア州ランカスターから一人の菓子職人が世界博覧会(コロンビア万博)の会場に立っていた。ミルトン・スネイバリー・ハーシー(Milton Snavely Hershey、1857〜1945)、当時36歳。彼はそこで運命の機械に出会う——ドイツ製のチョコレート製造機だ。フィラ
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1946年(昭和21年)秋、終戦から1年。静岡県浜松市の焼け野原に、たった一人の中年男が「本田技術研究所」という大袈裟な看板を掲げた。所員は本人だけ。資本金もろくにない。最初に売り物にしたのは、軍の放出品である小型エンジンをくっつけた自転車——通称「バタバタ」だ。男の名は本田宗一郎(ほんだ・そういち
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1980年(昭和55年)、横浜市。43歳の池森賢二(いけもり・けんじ)は、自宅で妻の肌荒れに苦しむ姿を目の当たりにしていた。「化粧品をつけると、かえって肌が荒れる」——妻だけではない。同じ悩みを抱える女性が日本中にいることを、池森は察知していた。原因は何か。当時の化粧品業界が「品質保持のため当然」と
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1930年(昭和5年)4月9日、福岡県久留米市。一本のタイヤが完成した。日本人の手による、日本初の国産自動車タイヤである。当時、世界のタイヤ市場はダンロップ、グッドイヤー、ファイアストンといった欧米の巨大メーカーが寡占していた。「日本人にタイヤなど作れるはずがない」——そう冷笑するのが当時の常識だっ
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1950年代後半、奈良の片田舎。石橋信夫(いしばし・のぶお)は鮎釣りの帰り道、川辺で遊ぶ子供たちの何気ない会話に耳を傾けていた。「自分だけの勉強部屋が欲しい」「離れの部屋があったらなあ」——狭い家に何人もの兄弟がひしめき合って暮らす戦後日本では、子供たちにとって「自分の部屋」は切実な夢だった。その瞬
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1993年、東京・赤坂の喫茶店。HAL研究所の経営は事実上の破綻状態にあった。負債は15億円、社員の給料も滞りかねない状況だ。33歳のプログラマー岩田聡(いわた・さとる)は、再建のために任天堂・山内溥社長と対峙していた。山内が出した条件は明快だった——「再建するなら、お前が社長になれ」。岩田は迷いな
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1953年(昭和28年)、20歳になったばかりの鍵山秀三郎(かぎやま・ひでさぶろう)は、自動車部品商社「デトロイト商会」に入社した。会社のトイレは汚れ放題で、職場の雰囲気も荒んでいた。彼は誰にも頼まれず、誰にも言わず、ただ一人で素手でトイレ便器を磨き始めた。これが彼の人生を貫く習慣となる。1961年
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1967年、パキスタン・ラホールから来た16歳の少年がアメリカ・イリノイの空港に降り立った。所持金はわずか500ドル。彼の名はシャヒド・ラフィク・カーン(Shahid Rafiq Khan)——後にアメリカで「Shad Khan」と呼ばれることになる男だ。最初の夜は大学YMCAの一泊2ドルの部屋で過
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1995年3月、韓国・亀尾(クミ)市のSamsung電子工場前の広場。約2000人の社員が見守る中、不良品の判定を受けた携帯電話、FAX、無線機など合計約15万台の製品が積み上げられた。時価にして約500億ウォン(当時のレートで約150億円相当)。製品の上には「品質は私の人格でありプライドだ」と書か
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1899年(明治32年)、東京・日本橋の魚河岸。江戸前の魚を取り扱う威勢の良い男たちが行き交うこの場所で、大阪から上京した一人の男が牛丼屋の暖簾を上げた。松田栄吉(まつだ・えいきち)——後に世界中で1日数百万食の牛丼を売ることになる「吉野家」の創業者だ。マクドナルドが日本に上陸したのは1971年。松
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1990年代初頭、都内のあるスーパーマーケットの菓子棚。松尾雅彦(まつお・まさひこ、1941-2018)は、自社が作ったポテトチップスの袋を一つ取り上げ、軽く握った。ガサッと音を立てて袋が潰れる——湿気で油脂が酸化し、本来のパリパリ感を失った商品だ。袋には「いつ作られたか」を示す表記はない。流通在庫
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1957年、山梨県山梨市。観光ブドウ園を営む家に生まれた三森久実(みもり・ひさみ)は、15歳のとき単身上京し、東京・池袋で「大戸屋食堂」を営む叔父・栄一の養子に入る。22歳で叔父が急逝、池袋駅東口の48坪・1日1000人が押し寄せる「全品50円均一」の大衆食堂を、若き三森が引き継ぐことになった。順風