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経営者向け 創業ストーリー

三森久実(大戸屋)|15歳で養子・22歳で事業承継・火災を機に「女性が一人で入れる定食屋」を生んだ情熱

三森久実(大戸屋)|15歳で養子・22歳で事業承継・火災を機に「女性が一人で入れる定食屋」を生んだ情熱

1957年、山梨県山梨市。観光ブドウ園を営む家に生まれた三森久実(みもり・ひさみ)は、15歳のとき単身上京し、東京・池袋で「大戸屋食堂」を営む叔父・栄一の養子に入る。22歳で叔父が急逝、池袋駅東口の48坪・1日1000人が押し寄せる「全品50円均一」の大衆食堂を、若き三森が引き継ぐことになった。順風満帆に見えた経営は、1992年秋の吉祥寺店全焼で根底から揺らぐ。火災跡地に立った三森は、男臭い大衆食堂をやめ、「女性が一人でも入れる手作り定食屋」という当時の業界に存在しなかったカテゴリを創ろうと決意。厨房に2年こもり外部の人間と会わずにメニューを練り上げた執念が、後の大戸屋ホールディングスを国内外で売上数百億円規模の定食チェーンへと押し上げた。死の2カ月前まで海外出張を続けた一人の男の「定食への異常な情熱」を辿る。

1957年生まれ、15歳で観光ブドウ園から池袋の食堂へ

三森久実は1957年(昭和32年)11月18日、山梨県山梨市に生まれた。生家は観光ブドウ園を営む農家であり、本来であれば三森も家業を継ぐ筋であった。山梨の自然に囲まれた幼少期は、後に「素材を活かす手作り料理」を大戸屋の核に据える原体験になっていく。だが彼の人生は、15歳のときに大きく転換する。

東京・池袋で「大戸屋食堂」を営んでいた叔父・栄一に子がいなかったため、三森は15歳で養子に入る形で上京した。観光ブドウ園のある山梨の田舎から、戦後復興を経て高度経済成長の余韻に沸く首都・池袋へ——農家の少年が見た景色の落差は計り知れない。叔父が営む大戸屋食堂は、池袋駅東口の路地に立つ典型的な大衆食堂であり、1958年に栄一が始めた「全品50円均一」の安さが売りの店だった。労働者や学生がひっきりなしに出入りし、1、2階あわせて48坪のフロアで1日1000人以上を捌くという、戦後の活気そのもののような場所だった。

三森自身は帝京高等学校に進学し、野球部で甲子園を目指すなど、まず食堂より野球に没頭した青年期を送る。卒業後は洋食店フローラーフーズ株式会社に入社して修業を積んだ。叔父の店を継ぐかどうかも定まらないまま、外食産業のいろはを別の場で学んでいた時期だ。「観光ブドウ園の長男」から「池袋の養子」、そして「洋食店の修業人」へ——立場を変え続けたこの遍歴が、後に大戸屋を業態転換に踏み切らせる柔軟性の土台となっていく。

(出典: Wikipedia「三森久実」日経ビジネス「定食・大戸屋をつくった男とその家族」

1979年、22歳で叔父の急逝——48坪・月商3000万円の食堂を引き継ぐ

1979年(昭和54年)、養父であり叔父でもあった栄一が急逝する。三森久実はわずか22歳で、池袋・大戸屋食堂の経営を引き継ぐことになった。当時の店は1、2階あわせて48坪、1日1000人以上の来店客で月商約3000万円、経常利益約1000万円という、町の食堂としては破格の繁盛店だった。

22歳の若者が、これだけの規模の現金商売を任される——普通であれば守りに入る局面である。だが三森は逆に攻めの姿勢を取った。フローラーフーズで身につけた洋食の知識と、自分が観光ブドウ園育ちであるが故の「素材へのこだわり」を、大衆食堂の運営に持ち込もうとした。1983年(昭和58年)には株式会社大戸屋を設立し、代表取締役社長に就任。叔父が築いた屋号を法人として整え、本格的に多店舗展開の準備を進めていく。

「とにかく大戸屋をでかくしてくれ」

—— 三森久実が周囲に語り続けた口癖(晩年まで)

池袋、高田馬場、吉祥寺と店舗を増やし、1990年前後には3店舗で売上高5億円に達した。20代の青年が10数年かけて、町の食堂を堂々たる中堅外食企業へと育て上げた格好だ。ただし、この成功は同時に三森を一度大きく躓かせもする。彼は次の成長を狙って「大皿料理店」への業態転換を試み、結果として約5000万円の損失を出してしまうのだ。順調な定食屋を捨て、流行の大皿料理に走った判断は、後に三森自身が「お客様の声から離れた瞬間に商売は崩れる」と語る教訓となる。失敗を経て三森が再び戻ったのは、原点である「定食」だった。

(出典: Wikipedia「三森久実」日経ビジネス「定食・大戸屋をつくった男とその家族」

1992年、吉祥寺店全焼——厨房に2年こもり「女性が一人で入れる店」を構想

1992年(平成4年)秋、吉祥寺店で火災が発生し、店舗が全焼する。一夜で店を失った経営者にとっては絶望的な出来事である。だが三森久実はこの不幸を、創業以来最大の「業態転換チャンス」へと組み替えた。それまでの大戸屋食堂は、典型的な男性労働者向けの大衆食堂であり、深夜まで酒を出し、たばこの煙が充満する空間だった。吉祥寺という街は若い女性が多く、流行の発信地でもある——その立地で、なぜ自分は男臭い食堂を続けていたのか。火災跡地に立った三森の頭をよぎったのは、業界の常識を疑う問いだった。

「若い女性が一人でも、堂々と入って手作りのご飯を食べられる定食屋を作る」

—— 三森久実が吉祥寺再建時に掲げたコンセプト(1992〜1994年)

当時の外食業界に、このカテゴリは存在しなかった。定食屋といえば「サラリーマンが汗を拭きながら食べる場所」、女性が一人で入る店はカフェかファストフードに限られていた。三森はその常識をひっくり返そうとした。火災再建中の吉祥寺店を「実験室」と位置づけ、厨房に自ら入って約2年間、外部の人間と会わずにメニュー開発に没頭する。野菜は丁寧に切り、魚は店内で焼き、煮物は手作りで提供する——セントラルキッチンが当たり前になりつつあった時代に、あえて「店内調理の手作り」を主軸に据えたのだ。

結果として吉祥寺店は劇的に生まれ変わる。リニューアル後の客層は一変し、女性客が7〜8割を占めるまでになった。「かあさんの手作り料理をお値打ち価格でお客様に」という愛言葉に象徴される、現在の大戸屋の原型がここで誕生する。火災という最悪の事件を、新カテゴリ創出のきっかけに変えた——その腹のくくり方こそ、22歳で急遽事業を引き継いだ男が培った肝の据わり方だった。

(出典: ベンチャー通信Online「大戸屋 三森久実」経営者通信Online「大戸屋 三森久実」

「店内調理・手作り定食」というカラクリ——セントラルキッチン全盛期への逆張り

1990年代以降の外食業界は、効率化を競う時代だった。セントラルキッチンで大量に下処理し、店舗ではあたためて出すだけ——人件費と調理スキル要件を下げるこの仕組みが、ファミレスや牛丼チェーンを巨大化させた。だが三森久実は、流れに逆らうように「店内調理の手作り定食」を選んだ。これは三森の経営判断のなかでもとりわけ大胆な逆張りだ。

もちろん店内調理はコストがかかる。野菜を切るスタッフ、魚を焼く設備、煮物を煮込む時間——どれもセントラルキッチン方式の数倍の手間を要する。にもかかわらず三森がこれを貫いたのは、彼が観光ブドウ園で育ち、「素材は鮮度と手当てで化ける」という体験を持っていたからだ。さらに、若い女性に「一人でも入れる店」と感じてもらうためには、味とともに「つくっている人の顔が見える安心感」が不可欠だと見抜いていた。オープンキッチンで湯気が立ち、店員が魚を焼く音が聞こえる——その情景は、ファミレスのオペレーションでは絶対に作れない。

店舗オペレーションの難易度は跳ね上がるが、その分メニュー単価も上げられる。当時の大衆食堂が500円前後の定食を主軸にしていた時代に、大戸屋は700〜1000円帯の手作り定食を打ち出した。価格は高めでも、店内で焼く魚の香り、湯気の立つ煮物、選べる小鉢——これらを総合した「体験価値」で勝負したのだ。これは現代でいう「カテゴリーキング」戦略そのものである。新カテゴリ「女性が一人で入れる手作り定食屋」を自ら作り出し、その王者になる——三森が無意識に実践していたのは、後のスタートアップ業界で議論される王道のパターンだった。

店内調理の徹底は、店舗運営の質を担保するための仕組みとしても機能した。マニュアル化された作業ではなく、現場の判断と技術を要求するため、店長や調理スタッフの育成が不可欠になる。結果として大戸屋は、外食チェーンとしては珍しく「人を育てる文化」を強く持つ企業へと成熟していった。

(出典: ニッポンの社長「株式会社大戸屋 三森久実」飲食の戦士たち「大戸屋 三森久實」

2001年店頭登録・海外展開——町の食堂が国際ブランドへ

吉祥寺で誕生した新コンセプトは、瞬く間に評判を呼んだ。三森久実は同じ店舗フォーマットを横展開し、首都圏を中心に出店を加速させる。「女性が一人で入れる定食屋」というポジションは、当時のオフィス街にも商店街にも空席だった。大戸屋はその空席を独占的に埋め、知名度を急速に高めていった。

2001年8月、株式会社大戸屋は日本証券業協会に株式を店頭登録する。1958年に叔父・栄一が始めた池袋駅東口の小さな大衆食堂が、創業から43年を経て公開企業の仲間入りを果たした瞬間だった。三森はこれを通過点と捉え、次なる地平として海外展開へと舵を切る。タイ、シンガポール、台湾、香港、米国、インドネシア、ベトナム——アジアを中心に大戸屋の店舗は次々と海を渡り、現地の若者にとって「日本の家庭料理を体験できる場所」として支持される。

主な出来事
1957年 三森久実、山梨県山梨市に誕生(観光ブドウ園の家)
1958年 叔父・栄一が池袋駅東口で「大戸屋食堂」を開業
1972年頃 三森、15歳で叔父の養子となり上京
1979年 叔父の急逝に伴い、22歳で事業を承継
1983年 株式会社大戸屋を設立、代表取締役社長に就任
1992年 吉祥寺店が火災で全焼、業態転換の起点となる
1994年頃 厨房に2年こもり「手作り定食」コンセプトを完成
2001年 日本証券業協会に株式を店頭登録
2005年 タイ・バンコクに海外1号店を出店
2015年7月 三森久実、肺がんにより死去(57歳)

三森は晩年、肺がんを患いながらも経営の最前線に立ち続けた。「死の2カ月前まで海外出張に出かけた」と関係者は語る。アジア各地の店舗を自分の目で見て、現地スタッフと言葉を交わし、味と接客を点検する——その姿は、22歳で店を引き継いだあの日から何ひとつ変わっていない。2015年7月、57歳で永眠。三森自身は早すぎる死を迎えたが、彼が創った「女性が一人で入れる手作り定食屋」というカテゴリは、今も日本の外食地図にしっかりと刻まれている。

(出典: Wikipedia「三森久実」日経ビジネス「創業者理念にあぐらをかき、大戸屋は変化を拒んだ」

まとめ

三森久実の軌跡は、「不幸を業態転換に変える胆力」と「業界の常識を疑う眼差し」を併せ持った稀有な事例だ。山梨の観光ブドウ園に生まれた少年は、15歳で池袋の食堂を営む叔父の養子となり、22歳で叔父の急逝により48坪・月商3000万円の大衆食堂を引き継いだ。1992年の吉祥寺店全焼を機に、それまでの男性客中心の食堂を捨て、「女性が一人で入れる手作り定食屋」という新カテゴリを自ら創出。厨房に2年こもり外部の人間と会わずにメニューを練り上げた執念が、大戸屋を国内外で愛される定食チェーンへと育てた。

三森が示したのは、「逆風こそが業態転換の好機」「業界の常識の外側に新カテゴリが眠っている」という王道だ。火災・人手不足・原材料高騰など、現代の経営者が直面する逆風も、視点を変えれば次の事業の起点になり得る。

参考資料

この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

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