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経営者向け 創業ストーリー

イ・ゴンヒ(Samsung)|在庫15万台を社員の前で焼き払い「妻と子以外すべて変えろ」と叫んだ二代目の異常な情熱

イ・ゴンヒ(Samsung)|在庫15万台を社員の前で焼き払い「妻と子以外すべて変えろ」と叫んだ二代目の異常な情熱 - コラム - 補助金さがすAI

1995年3月、韓国・亀尾(クミ)市のSamsung電子工場前の広場。約2000人の社員が見守る中、不良品の判定を受けた携帯電話、FAX、無線機など合計約15万台の製品が積み上げられた。時価にして約500億ウォン(当時のレートで約150億円相当)。製品の上には「品質は私の人格でありプライドだ」と書かれた横断幕が掲げられた。社員たちが大型のハンマーで一台ずつ砕き、その上に火が放たれた。Samsungの二代目会長・イ・ゴンヒ(李健熙、Lee Kun-hee)の指示だった。その2年前、彼は西ドイツのフランクフルトで全世界の幹部約200人を集め、こう叫んでいた。「妻と子以外、すべて変えろ」——後に「フランクフルト宣言」「新経営宣言」と呼ばれる、Samsung改革の号砲だった。父・イ・ビョンチョル(李秉喆)から「お前は二流の経営者だ」と評された無口な三男は、なぜここまで品質に憑かれたのか。1993年に売上高約7兆ウォンだったSamsungは、イ・ゴンヒが死去した2020年には連結売上高約237兆ウォン(約23兆円)の世界トップ級電機メーカーへと変貌した。その「異常な情熱」を辿る。

1. 1942年生まれ、父から「二流」と評された無口な三男

イ・ゴンヒは1942年(昭和17年)1月、韓国・大邱(テグ)に生まれた。父はサムスン財閥の創業者であるイ・ビョンチョル。三男として育った彼は、長男・次男に比べて口数が少なく、表面的には目立たない子どもだった。父は当初、後継者として長男や次男を念頭に置いていた。

少年時代のイ・ゴンヒは、戦後の混乱を避けるため日本へ送られて学んだ時期がある。早稲田大学第一商学部を卒業し、その後ジョージ・ワシントン大学経営大学院で経営学修士課程に進んだ。一方で映画・自動車・電子機器・レスリングなど多趣味で、ものごとを徹底的に分解して仕組みを理解するという観察癖を持っていた。後年、Samsungのテレビや半導体工程を分解してエンジニアと議論する姿は、この少年期の癖がそのまま経営手法になったものと評される。

父・イ・ビョンチョルは時に冷徹な評価を息子たちに下した。長男は経営から外され、後継者の座を巡る家族内の確執が長く続いた。三男のイ・ゴンヒも、父から「お前は二流だ。経営の細部まで降りていない」と厳しく言われたという証言が複数残る。表面の柔らかさと内心の野心が交錯する若き三男は、その評価を生涯記憶した。

1979年、Samsungグループの副会長に就任。1987年11月、父・イ・ビョンチョルが死去し、12月に45歳でSamsungグループ会長に就任する。この時点でSamsungは韓国国内では大企業だが、世界市場では「安かろう悪かろう」の二流家電メーカーに過ぎなかった。「二流」と評された男が、「二流」と呼ばれる会社を継いだ——ここからイ・ゴンヒの異常な情熱が点火する。

(出典: Wikipedia「李健熙」Wikipedia「Lee Kun-hee」

2. 1987年会長就任、就任から5年の「沈黙の観察期」

1987年12月にSamsungグループ会長に就任したイ・ゴンヒは、しかし派手な改革には踏み切らなかった。父の代から続く幹部たちが社内に厚く根を張り、官僚的な意思決定文化が支配していたからだ。新会長の最初の数年は、外部からは「目立たない二代目」と評されたが、内側では緻密な観察が進行していた。

彼は5年近くにわたり、自社の半導体・家電・通信製品を実際に分解させ、エンジニアと深夜まで議論を重ねた。海外の販売店を匿名で回り、Samsung製のテレビが店の隅に積まれ、ホコリをかぶった状態で放置されている現場を自分の目で見た。米国の家電量販店では、Samsung製品が日本のソニーや松下、フィリップスの製品より格段に安く、しかし誰も買おうとしない光景を目撃した。「これは品質の問題だ。安いから売れない、ではない。安くても買われない」——彼の内側で危機感が膨らんでいった。

1990年代初頭、世界は半導体・通信革命の入口に立っていた。日本のメーカーが世界の電機市場を支配していたが、その背後で韓国・台湾の若い企業群が技術力を急速に高めていた。イ・ゴンヒは「このまま二流のままなら、Samsungは10年で消える」と確信した。沈黙の観察期の終わりが近づいていた。

1993年2月、ロサンゼルスに幹部を集めた会議で、彼はSamsung製品を世界の競合製品と並べさせた。Samsungのテレビは店頭の最下段、しかも誰も振り返らない位置にあった。彼は幹部たちに静かに告げた。「お前たちはこれで満足しているのか」。会議室は沈黙に包まれた。これがフランクフルト宣言の伏線となる。

(出典: Samsung Newsroom「In Memory of Samsung Electronics Chairman Lee Kun-hee」Wikipedia「Lee Kun-hee」

3. 1993年フランクフルト宣言「妻と子以外、すべて変えろ」

1993年6月、ドイツ・フランクフルト。イ・ゴンヒは全世界からSamsungの幹部約200人を集め、ケンピンスキーホテルで3日間にわたる会議を開いた。後に韓国経営史に刻まれる「フランクフルト宣言」または「新経営(New Management)宣言」である。

「妻と子以外、すべて変えろ」

—— イ・ゴンヒ、フランクフルト宣言(1993年6月)

会議室で彼は声を荒げ、机を叩き、Samsung社内の官僚主義、量産優先文化、品質軽視の姿勢を徹底的に糾弾した。当時のSamsungは「量より質(Quality over Quantity)」とは真逆の文化で、出荷台数と売上規模を競う企業だった。彼が掲げたスローガンは明快だった。「量を捨てて、質を取れ」。出荷数を半減してでも、不良品ゼロを目指せ——常識では考えられない指示だった。

イ・ゴンヒは3日間で延べ約20時間以上、休みなく話し続けたという証言がある。「世界一流企業になるために、私たちは何を捨てるのか。何を変えるのか。家族以外のすべてを変える覚悟があるか」。幹部たちは初めて、無口な二代目会長の内側に燃え続けていた炎を目にした。会議が終わる頃には、Samsungの文化を変えなければ生き残れないという危機感が、出席者全員の腹に落ちていた。

フランクフルト宣言の後、Samsungは「7-4制(午前7時出社・午後4時退社)」を一部部門で導入し、定時退社後の自己研鑽を奨励した。製品開発プロセスを抜本的に見直し、デザイン・品質・ブランドへの投資を倍増させた。「これからは品質が我々の人格である」というメッセージが社内文書に繰り返し記載された。改革は紙の上だけでは終わらない——2年後、それは「炎」となって可視化される。

(出典: Samsung Newsroom「In Memory of Samsung Electronics Chairman Lee Kun-hee」BBC News「Samsung chairman Lee Kun-hee dies aged 78」

4. 1995年「焚刑式」——15万台・約150億円相当を社員の前で焼き払う

1995年初め、イ・ゴンヒは旧正月の贈答品として、社員と取引先にSamsung製の最新型携帯電話「SH-700」を配布した。だが、贈答先から続々と苦情が返ってきた。「電話がかからない」「ノイズが入る」「待ち受けで突然落ちる」。不良率は最大10%を超えていたとされる。彼の怒りは限界を超えた。

1995年3月9日、韓国南東部の亀尾(クミ)工場前広場で、Samsung経営史を象徴する「事件」が行われた。約2000人の社員が整列する中、不良品判定された携帯電話・FAX・無線機・コードレス電話など合計約15万台が積み上げられた。総額にして約500億ウォン——当時のレートで約150億円相当と報じられた在庫だった。製品の山の上には「品質は我が人格であり、プライドである」と書かれた横断幕。社員たちが大型のハンマーで一台ずつ叩き壊し、火が放たれた。炎は数時間燃え続けたという。

この場面は社内で「火形式(화형식、焚刑式)」と呼ばれるようになる。文字通り、不良品を「火刑に処す」儀式である。経済合理性から見れば、不良品を修理して廉価で売る、あるいは部品を回収するなどの選択肢はいくらでもあった。しかしイ・ゴンヒはあえて「燃やす」ことを選んだ。それは経済行為ではなく、文化を変えるための象徴的儀式だった。「不良品を作った瞬間、それを直すのではなく、燃やせ。二度と作るな」——社員の脳裏に焼き付けるための、計算された劇場性である。

この日以降、Samsung社内では「不良品ゼロ」が経営理念の中心に据えられた。生産ラインでは一台でも不良が出れば即座にラインを止め、原因究明が終わるまで再開しない「ラインストップ権限」が現場作業員にまで降ろされた。トヨタの「ジドウカ(自働化)」に近い思想だ。焼き払われた15万台の煙は、Samsungの品質文化を象徴する記憶として、現在まで社内研修で語り継がれている。

(出典: Samsung Newsroom「In Memory of Samsung Electronics Chairman Lee Kun-hee」Reuters「Samsung's Lee Kun-hee, who built electronics giant, dies at 78」

5. 半導体・スマートフォン世界一——売上7兆ウォンから237兆ウォンへ

フランクフルト宣言と亀尾の焚刑式を経て、Samsungは別の会社に生まれ変わった。1990年代後半、Samsung電子は半導体メモリ(DRAM・NAND)で世界シェア首位に立つ。アジア通貨危機(1997年)で多くの韓国財閥が解体される中、Samsungは逆に身軽になり、半導体・液晶・通信に経営資源を集中させた。

主な出来事
1942年 イ・ゴンヒ、韓国・大邱に生まれる
1987年 父の死去に伴いSamsungグループ会長就任
1993年 フランクフルト宣言「妻と子以外、すべて変えろ」
1995年 亀尾工場前で不良品15万台・約150億円相当を焼却
1998年 DRAM世界シェア首位を維持、半導体で世界の中心へ
2009年 液晶テレビ世界シェア首位、ソニーを抜く
2011年〜 Galaxyシリーズでスマートフォン世界出荷台数首位
2014年 心筋梗塞で倒れ、以後経営の第一線を退く
2020年10月 78歳で死去。同年Samsung電子連結売上高 約237兆ウォン

1993年に約7兆ウォンだったSamsung電子の売上高は、彼が事実上の経営から退いた2014年には約206兆ウォン、亡くなった2020年には約237兆ウォン(約23兆円)に達した。実に30倍以上の成長である。テレビ、半導体、スマートフォン、ディスプレイ、有機EL——あらゆる電子産業のカテゴリでSamsungは世界トップ級の地位を占めるに至った。Interbrandのグローバルブランドランキングでも、Samsungは2012年以降ほぼ毎年トップ10入りを果たしている。

イ・ゴンヒの遺産は、単に売上規模だけではない。「二流のブランドが、品質を旗印にして世界一流になり得る」というロールモデルを韓国・アジアの後発企業に示した点が、産業史的に最も大きい。日本の家電メーカーが90年代以降に経営判断で苦しむ間、Samsungは「焼き払う覚悟」を共有した社員集団として、デジタル時代の波を捉え切った。「異常な情熱」とは、合理性を超えた象徴的行動を厭わない経営者の覚悟そのものだ。

(出典: Samsung Electronics 公式IR「Audited Financial Statements」Reuters「Samsung's Lee Kun-hee, who built electronics giant, dies at 78」

6. イ・ゴンヒの軌跡から学ぶ教訓と、中小企業が活用できる補助金

イ・ゴンヒの経営哲学から学べる第一の核心は、「品質は妥協を一切許さない」という覚悟の可視化だ。15万台・約150億円相当の在庫を社員の前で燃やす行為は、合理的に見れば狂気である。だが、その狂気こそが「不良品を出した者は会社の人格を傷つけた」という認識を全社員の脳裏に刻み込んだ。中小企業の経営者にとっても、品質や顧客対応の基準を妥協なく社内へ示すこと——それが「異常」と評されるほどの徹底でなければ、文化は変わらないという教訓である。

第二の教訓は、「後発でも一流になれる」という確信だ。Samsungは1990年代まで「安かろう悪かろう」のアジア家電メーカーに過ぎなかった。だがイ・ゴンヒは「量を捨てて質を取れ」と命じ、ブランド・デザイン・研究開発に集中投資した。日本の大企業が縮小均衡で守りに入る間、Samsungは攻めの設備投資と研究開発で先手を打ち続けた。中小企業も「業界のなかでは後発」と感じる場面が多いはずだが、品質と独自性に集中すれば後発の地位は逆転できる。

イ・ゴンヒの経営判断 関連する補助金・支援制度
不良品ゼロを掲げた品質改善・生産ライン改革 ものづくり補助金(生産プロセスの改善・新工程開発)
フランクフルト宣言による事業構造の転換・新経営宣言 事業再構築補助金(新分野展開・業態転換)
半導体・液晶・スマホへの集中研究開発投資 ものづくり補助金(新製品・新サービスの研究開発)
ブランド・デザインへの大規模投資 JAPANブランド育成支援等事業・小規模事業者持続化補助金
7-4制など働き方・人材育成制度の大改革 人材開発支援助成金・働き方改革推進支援助成金
海外展開と現地市場での販売拡大 JAPANブランド育成支援等事業・海外展開補助金

特に中小企業の経営者が注目すべきはものづくり補助金との親和性だ。イ・ゴンヒが命じた「不良率10%超を見過ごさない」品質基準は、現代の中小製造業にとっても永遠のテーマである。検査機器の導入、IoTによる工程モニタリング、AIによる外観検査の自動化——こうした品質改善設備投資は、ものづくり補助金の補助対象として典型的だ。15万台を燃やす儀式は誰にもできないが、検査ラインを自動化し、不良品を市場に出さない仕組みを作ることは、補助金を活用すれば十分に可能だ。

また、イ・ゴンヒのフランクフルト宣言が示したように「事業の主軸を変える決断」には大きな投資負担が伴う。事業再構築補助金は、まさにこうした「業態転換・新分野展開」を後押しする制度であり、後継経営者が父親世代から受け継いだ事業を次世代に合う形へ作り替える場面で大きな味方になる。「妻と子以外、すべて変えろ」という覚悟を、補助金という仕組みで現実の投資に置き換えること——令和の中小企業経営者にこそ求められる視点だ。

(出典: 中小企業庁 ミラサポplus「人気の補助金」ものづくり補助金総合サイト

まとめ

イ・ゴンヒの軌跡は、「品質への異常な情熱」を実業に変えた稀有な事例だ。父から「二流」と評された無口な三男は、1987年にSamsungグループ会長に就任した。5年の沈黙の観察期を経て、1993年フランクフルト宣言で「妻と子以外、すべて変えろ」と全世界の幹部に号令を下した。1995年には亀尾工場前で不良品の携帯電話・FAX計15万台、約150億円相当を社員2000人の前で焼き払い、「品質は私の人格である」という文化をSamsung全社に刻み込んだ。

その結果、1993年に約7兆ウォンだったSamsung電子の売上は、2020年には約237兆ウォン(約23兆円)に到達。半導体・液晶・スマートフォンで世界首位を取り、二流ブランドだったSamsungを世界一流企業へ押し上げた。イ・ゴンヒが残したのは、「合理性を超えて文化を変える覚悟」と「後発でも一流になれる」というロールモデルだ。

あなたの事業にも、「妥協を許さない一点」が眠っているはずだ。イ・ゴンヒが15万台を燃やしたほどの覚悟は容易ではないが、品質改善や事業再構築を後押しする補助金を組み合わせれば、中小企業でも文化を変える投資は可能だ。後発の地位を覆すための一手を、補助金とともに踏み出してほしい。

参考資料

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この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

X-HACK Inc. 代表取締役。システムコンサルタントとして中小企業の基幹システム構築・業務設計に携わったのち、自ら起業。小規模ビジネスの立ち上げから黒字化までを複数回経験し、採用・資金調達・補助金申請の実務にも精通。「補助金さがすAI」の開発・運営を通じて、経営者が本当に必要とする情報を現場目線で発信しています。

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