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創業ストーリー 経営者向け

ウォルト・ディズニー|スタジオ倒産、床で寝泊まり——それでもアニメを描き続けた男

ウォルト・ディズニー|スタジオ倒産、床で寝泊まり——それでもアニメを描き続けた男

1923年、21歳のウォルト・ディズニーが設立したアニメスタジオが倒産しました。従業員は全員去り、電気も止まった暗いスタジオの床で寝泊まりし、缶詰の豆を冷たいまま食べて飢えをしのぐ日々。それでも彼はアニメを描き続けました。所持金40ドルとボロボロのスーツケース1つでハリウッド行きの列車に乗り、やがて世界最大のエンターテインメント帝国を築くことになります。

ミズーリの農村で芽生えた「描くこと」への執着

ウォルト・ディズニーは1901年12月5日、シカゴで5人兄弟の4番目として生まれました。父イライアスは大工・農夫・建設業者と職を転々とする人物で、一家は幼少期にミズーリ州マーセリンという小さな農村に移住します。この町の風景が、のちのディズニーランド「メインストリートU.S.A.」のモデルになりました。

少年時代のウォルトに転機を与えたのは、叔母マーガレットからもらったクレヨンとスケッチブックでした。以来、父が購読する新聞の風刺画を模写し、近所の農場の馬や動物を描き続けます。「描くこと」がウォルトにとって唯一の自己表現であり、学業よりも、農作業よりも、絵だけは何時間でも没頭できた

高校では学校新聞のイラストと写真を担当。1918年、16歳のウォルトは年齢を偽って(パスポートの生年を1900年に書き換え)赤十字の救急車運転手としてフランスに渡りますが、戦場でも空き時間には絵を描き続けていました。

(出典: Wikipedia「Walt Disney」Walt Disney Family Museum「Walt Disney and the Gift of Art」

ラフ・オ・グラム・スタジオ——倒産と床での寝泊まり

1919年、フランスから帰国したウォルトはカンザスシティで商業アートの仕事を始め、ここでのちの盟友アブ・アイワークス(Ub Iwerks)と出会います。1921年、20歳のウォルトはラフ・オ・グラム・スタジオを設立し、アニメーション制作に乗り出しました。

しかし配給会社ピクトリアル・クラブスが倒産し、制作費が回収不能に。スタジオの財政は一気に崩壊します。従業員は全員去り、電気代も払えなくなりました。

ウォルトは誰もいなくなったスタジオの床で寝泊まりし、缶詰の豆を冷たいまま食べて飢えをしのぎました。入浴は週1回、近くの鉄道駅ユニオンステーションのシャワーだけ。

それでもウォルトはアニメを描き続けました。実写とアニメを組み合わせた「アリスの不思議の国」の制作を一人で進めます。この未完成フィルムが、次のチャンスへの切符になることをこの時点では知りません。

1923年7月、ラフ・オ・グラム・スタジオは正式に破産申請。ウォルト・ディズニー、21歳の出来事でした。

(出典: Wikipedia「Laugh-O-Gram Studio」National Archives「Walt Disney Bankruptcy」

所持金40ドル、スーツケース1つでハリウッドへ

1923年8月、ウォルトはカメラを売って片道列車切符を購入し、ハリウッドへ向かいます。手元に残ったのは40ドルと、ボロボロの段ボール製スーツケース。中身はズボン1本、チェック柄のコート、画材、そして未完成の「アリス」のフィルム1巻だけ。

ハリウッドでは、結核療養中の兄ロイ・ディズニーのもとに転がり込みました。ウォルトは映画スタジオへの就職を試みますが、どこにも雇ってもらえません。

転機は1923年10月。ニューヨークの配給者マーガレット・ウィンクラーが、カンザスシティで作った未完成の「アリス・コメディ」に興味を示します。1本1,500ドルの配給契約が成立。兄ロイと共にディズニー・ブラザーズ・カートゥーン・スタジオを設立——これがウォルト・ディズニー・カンパニーの原点です。

倒産したスタジオの床で、誰にも見せるあてなく描き続けたフィルムが、ハリウッドへの切符になりました。

(出典: Walt Disney Family Museum「100 Years Ago: Walt Goes West」

オズワルドを奪われた夜——「権利」の価値を知る

ハリウッドで成功を掴んだウォルトは、1927年にユニバーサル・ピクチャーズ向けの新キャラクター「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」を制作。シリーズは大ヒットしました。

しかし1928年2月、ニューヨークで配給者チャールズ・ミンツとの交渉に臨んだウォルトは、衝撃の現実を突きつけられます。「報酬を20%カットする。嫌なら、オズワルドはこちらで作る」。契約上、キャラクターの権利はユニバーサルの所有でした。さらに、ウォルトのアニメーターの大半がすでにミンツと裏で契約を結んでいたのです。

ウォルトは屈しませんでした。オズワルドを手放し、帰りの列車の中で新しいキャラクターを構想。「今度は絶対に、自分が権利を持つ」と誓いました。

こうして生まれたのがミッキーマウスです。盟友アイワークスと共に制作し、1928年11月18日、世界初の完全同期サウンド付きアニメ「蒸気船ウィリー」がニューヨークのコロニー・シアターで公開されます。録音資金のために愛車を売却して制作した作品は大成功を収め、ミッキーマウスは一夜にしてスターになりました。

(出典: Wikipedia「Oswald the Lucky Rabbit」Wikipedia「Steamboat Willie」

中小企業経営者が学べること

  • 知的財産(IP)は絶対に手放すな — オズワルドの権利を失った経験が、ディズニー帝国の根幹思想になりました。下請け契約でキャラクターやブランドの権利を渡すと、成功するほど自分の手から離れていきます
  • 倒産は終わりではない — ラフ・オ・グラムの破産からわずか5年でミッキーマウスを生みました。倒産したスタジオで描き続けたフィルムが、次のビジネスの種になった。最悪の時に作ったものが、最大の資産になり得ます
  • 販路の一社依存は命取り — 配給会社1社に依存していたから、その倒産でスタジオごと崩壊しました。取引先・販売チャネルの分散は事業の生命線です
  • 技術の波に先行投資する — サイレントからトーキーへの転換期に、他社が様子見する中で車を売ってまでサウンド技術に賭けた。新技術への先行投資が「蒸気船ウィリー」の大成功を生みました

まとめ

ウォルト・ディズニーは21歳でスタジオが倒産し、床で寝泊まりしながら缶詰の豆を食べてアニメを描き続けました。所持金40ドルでハリウッドに渡り、ヒット作のキャラクターを奪われても、帰りの列車でミッキーマウスを生み出しました。

ディズニーの「異常な情熱」は、「何を失っても、描き続ける」という一点に集約されます。倒産しても、裏切られても、手元に残った未完成のフィルムと画材だけを握りしめて次に進んだ。あなたの事業で「最悪の時でも手放せないもの」は何ですか? それが、あなたの本当の武器です。

この記事を書いた人

松田信介
松田 信介 Shinsuke Matsuda

X-HACK Inc. 代表取締役 / PARKLoT CTO

Microsoft for Startups Founders Hub 採択

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