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コラム:創業ストーリー

102件の記事

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石神秀幸(七宝麻辣湯)|「ラーメン王」が評論する側から作る側へ、中国200軒を食べ歩いて生んだ麻辣湯ブームの仕掛け人

石神秀幸は1972年8月19日、東京都に生まれた。ラーメンへの愛が高じて1995年、テレビ東京の人気番組「TVチャンピオン」のラーメン王選手権・第3回と第4回で優勝。2大会連続制覇という快挙で、一躍「神の舌を持つ男」として知られるラーメン評論家になった。

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新井隆二(ビックカメラ)|「家電は郊外」の常識を覆し、池袋駅前を日本一の家電聖地に変えた男

1978年、東京・池袋。群馬県高崎市の小さなカメラ販売店「高崎DPセンター」を構えていた32歳の新井隆二(あらい・りゅうじ、通称・隆司)は、東京進出の地としてあえて池袋駅前を選んだ。当時の常識は「家電は郊外ロードサイド」——大型店は地代の安い郊外に駐車場付きで構えるのが定石だった。だが新井は、徒歩客

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ベルナール・アルノー(LVMH)|父の建設会社を売却し「ディオール」を手に入れた『侵略者』の異常な情熱

1984年、フランス・パリ。土木建設業の家業を継いだ35歳の若き経営者ベルナール・アルノー(Bernard Arnault)は、ある決断を下した。父から受け継いだ建設会社「フェレ・サヴィネル」の不動産部門を売却し、その資金4000万フランを懐に、経営破綻していた繊維コングロマリットブサック社の買収に

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ロバート・ボッシュ|不合格品を自ら叩き割り、世界に先駆けて1日8時間労働を導入した「品質と人」への異常な情熱

1886年11月15日、ドイツ南西部シュトゥットガルト。職人と使い走りの少年、わずか二人を従えて、25歳の若者が「精密機械と電気工学の作業場」の看板を掲げた。男の名はロバート・ボッシュ(Robert Bosch、1861-1942)。当時、ガソリン自動車という新しい乗り物が産声を上げたばかりで、その

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ガブリエル・シャネル(CHANEL)|孤児院で育ち「女性をコルセットから解放する」と宣言し服飾の歴史を変えた異常な情熱

1883年、フランス中部の田舎町ソミュール。行商人の父と病弱な母のあいだに生まれたガブリエル・ボヌール・シャネル(Gabrielle Bonheur Chanel)は、12歳で母を亡くし、父に捨てられるようにオバジーヌ修道院付属の孤児院へ預けられた。施設で身につけた「縫う」という技能だけを武器に、お

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アンドレ・シトロエン(Citroën)|砲弾を日産5万発・ヨーロッパのフォードを目指した『前輪駆動』の異常な情熱

1914年、第一次世界大戦の戦火に包まれたフランス。砲弾の絶望的な不足にあえぐ陸軍に対し、当時36歳の砲兵将校アンドレ・シトロエン(André Citroën, 1878–1935)は驚くべき提案を持ち込んだ。「パリのジャベル河岸に巨大工場を建て、砲弾を1日5万発製造する」——常識を覆す計画は採用さ

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ジョン・ポール・デジョリア(ポール・ミッチェル)|資本金700ドル・車中生活で身なりを整え、サロンに飛び込み営業した男の異常な情熱

1980年、米ロサンゼルス。1台の古いロールスロイスが、ある男の自宅であり、オフィスであり、移動式倉庫だった。男の名はジョン・ポール・デジョリア(John Paul DeJoria, 1944〜)。当時36歳、養護施設で育ち、百科事典の訪問販売を経て、ヘアケア大手レッドケンを解雇された彼は、ヘアスタ

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レイ・ドルビー(ドルビー研究所)|16歳でAmpex入社・インドの録音現場で着想した「ノイズリダクション」が映画館の標準になった情熱

1965年、ロンドン。32歳のレイ・ドルビー(Ray Dolby)は、わずか4人のスタッフとともに「ドルビーラボラトリーズ」を立ち上げた。彼の手には、インド・ニューデリーで国連の科学計測ラボ立ち上げの任務に就いていた2年間に着想したアイデアがあった。「テープ録音のノイズだけを選び出して消す回路」——

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ジェームズ・ダイソン|5年・5,127台の試作機と妻の美術教師の給料で家族を養った「サイクロン狂い」の情熱

1978年、英国コッツウォルズの片田舎。31歳のジェームズ・ダイソン(James Dyson)は、ヴィクトリア朝の古い屋敷を自ら改装していた。粉塵まみれの作業の中、彼は妻が買い与えた紙パック式掃除機が「使うほどに吸引力が落ちる」事実に苛立っていた。「ゴミ袋が詰まっていないのに、なぜ吸わないのか」——

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エンツォ・フェラーリ(フェラーリ)|FIATに不採用・トリノの雪のベンチで泣いた男が築いた跳ね馬の王国

1919年、第一次世界大戦から復員した21歳の青年は、雪の舞うトリノの公園のベンチで一人泣いていた。彼の名はエンツォ・フェラーリ。父と兄をスペイン風邪で立て続けに失い、頼みの綱だったイタリア最大の自動車メーカーフィアット(FIAT)の入社試験には不採用——後に自伝に「わたしは雪の降るトリノの公園のベ

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アンディ・グローブ(Intel)|ナチスから隠れ、ソ連軍を逃れ、皿洗いから首席卒業——「パラノイアだけが生き残る」男の情熱

1956年11月、ハンガリー・ブダペスト。ソ連軍の戦車が街を制圧する中、20歳のアンドラーシュ・グローフ(後のアンディ・グローブ)は一晩中ソ連兵を避けながら、友人と二人で国境を越えてオーストリアへ逃げた。手元には英語の本一冊もなく、家族に別れを告げる時間すらなかった。難民船でニューヨークに渡り、ブル

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早川徳次(シャープ)|関東大震災で工場・妻・子2人を一夜で失い、大阪で日本初のラジオを生んだ男

1923年(大正12年)9月1日、東京・本所。早川徳次(はやかわ・とくじ)は29歳だった。シャープペンシルの大ヒットで工場は林町120坪、亀戸にも分工場を構え、従業員200人を抱える金属加工事業者として、波に乗っていた。その日の正午前——マグニチュード7.9の関東大震災が首都圏を襲った。工場は全焼。

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ヘンリー・フォード(フォード・モーター)|食肉解体場の流れ作業を丸一日見学し、5ドル日給と8時間労働で世界を変えた男の異常な情熱

1913年、米国ミシガン州ハイランドパーク。1台あたり12時間以上かかっていた自動車の組立工程が、わずか1時間33分に短縮された。世界初の移動式組立ライン(moving assembly line)の誕生である。発案者はヘンリー・フォード(Henry Ford, 1863–1947)。ミシガン州の農

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ミルトン・ハーシー(Hershey's)|3度の倒産、成功中のキャラメル工場を100万ドルで売却し全てチョコにベットした男の情熱

1893年、シカゴ。ペンシルベニア州ランカスターから一人の菓子職人が世界博覧会(コロンビア万博)の会場に立っていた。ミルトン・スネイバリー・ハーシー(Milton Snavely Hershey、1857〜1945)、当時36歳。彼はそこで運命の機械に出会う——ドイツ製のチョコレート製造機だ。フィラ

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本田宗一郎(本田技研工業)|妻の指輪を質に入れて再起、油まみれの手でマン島TT世界一を掴んだ男の異常な情熱

1946年(昭和21年)秋、終戦から1年。静岡県浜松市の焼け野原に、たった一人の中年男が「本田技術研究所」という大袈裟な看板を掲げた。所員は本人だけ。資本金もろくにない。最初に売り物にしたのは、軍の放出品である小型エンジンをくっつけた自転車——通称「バタバタ」だ。男の名は本田宗一郎(ほんだ・そういち

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池森賢二(ファンケル)|妻の肌荒れから生まれた「無添加化粧品」、業界に10年間無視された男の異常な情熱

1980年(昭和55年)、横浜市。43歳の池森賢二(いけもり・けんじ)は、自宅で妻の肌荒れに苦しむ姿を目の当たりにしていた。「化粧品をつけると、かえって肌が荒れる」——妻だけではない。同じ悩みを抱える女性が日本中にいることを、池森は察知していた。原因は何か。当時の化粧品業界が「品質保持のため当然」と

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石橋正二郎(ブリヂストン)|久留米の足袋屋から「日本でタイヤは作れない」を覆し世界一を築いた創業者の情熱

1930年(昭和5年)4月9日、福岡県久留米市。一本のタイヤが完成した。日本人の手による、日本初の国産自動車タイヤである。当時、世界のタイヤ市場はダンロップ、グッドイヤー、ファイアストンといった欧米の巨大メーカーが寡占していた。「日本人にタイヤなど作れるはずがない」——そう冷笑するのが当時の常識だっ

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石橋信夫(大和ハウス工業)|鮎釣りの帰り道、子供の一言が生んだ「3時間で建つ家」と売上5兆円企業

1950年代後半、奈良の片田舎。石橋信夫(いしばし・のぶお)は鮎釣りの帰り道、川辺で遊ぶ子供たちの何気ない会話に耳を傾けていた。「自分だけの勉強部屋が欲しい」「離れの部屋があったらなあ」——狭い家に何人もの兄弟がひしめき合って暮らす戦後日本では、子供たちにとって「自分の部屋」は切実な夢だった。その瞬

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岩田聡(任天堂)|HAL研究所の借金を一人で背負った33歳社長、Wiiで「ゲーム人口拡大」を成し遂げた異常な情熱

1993年、東京・赤坂の喫茶店。HAL研究所の経営は事実上の破綻状態にあった。負債は15億円、社員の給料も滞りかねない状況だ。33歳のプログラマー岩田聡(いわた・さとる)は、再建のために任天堂・山内溥社長と対峙していた。山内が出した条件は明快だった——「再建するなら、お前が社長になれ」。岩田は迷いな

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鍵山秀三郎(イエローハット)|素手で便器を磨く掃除を60年以上続け、海外まで広げた「凡事徹底」の経営者

1953年(昭和28年)、20歳になったばかりの鍵山秀三郎(かぎやま・ひでさぶろう)は、自動車部品商社「デトロイト商会」に入社した。会社のトイレは汚れ放題で、職場の雰囲気も荒んでいた。彼は誰にも頼まれず、誰にも言わず、ただ一人で素手でトイレ便器を磨き始めた。これが彼の人生を貫く習慣となる。1961年

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シャヒド・カーン(Flex-N-Gate)|16歳・所持金500ドル・時給1.2ドルの皿洗いから「NFL初のマイノリティ・オーナー」へ駆け上がった男の異常な情熱

1967年、パキスタン・ラホールから来た16歳の少年がアメリカ・イリノイの空港に降り立った。所持金はわずか500ドル。彼の名はシャヒド・ラフィク・カーン(Shahid Rafiq Khan)——後にアメリカで「Shad Khan」と呼ばれることになる男だ。最初の夜は大学YMCAの一泊2ドルの部屋で過

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イ・ゴンヒ(Samsung)|在庫15万台を社員の前で焼き払い「妻と子以外すべて変えろ」と叫んだ二代目の異常な情熱

1995年3月、韓国・亀尾(クミ)市のSamsung電子工場前の広場。約2000人の社員が見守る中、不良品の判定を受けた携帯電話、FAX、無線機など合計約15万台の製品が積み上げられた。時価にして約500億ウォン(当時のレートで約150億円相当)。製品の上には「品質は私の人格でありプライドだ」と書か

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松田栄吉(吉野家)|1899年・日本橋魚河岸に立った「日本初のファストフード」を作った男の情熱

1899年(明治32年)、東京・日本橋の魚河岸。江戸前の魚を取り扱う威勢の良い男たちが行き交うこの場所で、大阪から上京した一人の男が牛丼屋の暖簾を上げた。松田栄吉(まつだ・えいきち)——後に世界中で1日数百万食の牛丼を売ることになる「吉野家」の創業者だ。マクドナルドが日本に上陸したのは1971年。松

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松尾雅彦(カルビー)|「ポテトチップスが棚でホコリをかぶる」現実への怒りが生んだ製造年月日刻印という革命

1990年代初頭、都内のあるスーパーマーケットの菓子棚。松尾雅彦(まつお・まさひこ、1941-2018)は、自社が作ったポテトチップスの袋を一つ取り上げ、軽く握った。ガサッと音を立てて袋が潰れる——湿気で油脂が酸化し、本来のパリパリ感を失った商品だ。袋には「いつ作られたか」を示す表記はない。流通在庫

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三森久実(大戸屋)|15歳で養子・22歳で事業承継・火災を機に「女性が一人で入れる定食屋」を生んだ情熱

1957年、山梨県山梨市。観光ブドウ園を営む家に生まれた三森久実(みもり・ひさみ)は、15歳のとき単身上京し、東京・池袋で「大戸屋食堂」を営む叔父・栄一の養子に入る。22歳で叔父が急逝、池袋駅東口の48坪・1日1000人が押し寄せる「全品50円均一」の大衆食堂を、若き三森が引き継ぐことになった。順風

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森永太一郎(森永製菓)|23歳で渡米→失意の住み込み修行11年、2坪の工場から始まった「お菓子で日本人を強くする」情熱

1899年(明治32年)8月、東京・赤坂溜池の片隅。森永太一郎(もりなが・たいちろう、1865-1937)は、わずか2坪の小さな工場で日本初の本格的な西洋菓子製造を始めた。34歳。それまでの11年間をアメリカで過ごし、九谷焼の行商に失敗して無一文となり、サンフランシスコの洋菓子店に住み込みで働きなが

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仲田祐一(ピジョン)|約6年・1000人の母親に謝礼を払い「おっぱい社長」と呼ばれた哺乳器一筋の情熱

1949年、神奈川県茅ヶ崎市。終戦から4年、シベリア抑留の地獄を生き延びて帰国した仲田祐一(なかた・ゆういち)は、戦争で痩せ細った赤ちゃんたちを目にして決意した。「日本の未来は赤ちゃんにある」——そして同年、わずかな資金と仲間を頼りに「ピジョン哺乳器本舗」を立ち上げた。しかし仲田の挑戦はそこから始ま

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中内㓛(ダイエー)|「よい品をどんどん安く」を掲げ松下電器と30年戦争を戦った価格破壊の情熱

1957年9月23日、大阪市旭区の京阪本線千林駅前。終戦から12年、フィリピン戦線で虫を食べて生き延び、手榴弾で瀕死の重傷を負った男が、ひとつの薬局を開いた。中内㓛(なかうち・いさお)、35歳。店の名は「主婦の店ダイエー薬局」。薄暗い米軍基地の倉庫に積まれたアイスクリームを目撃し「日本人にも、お腹い

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似鳥昭雄(ニトリ)|米国視察で号泣した青年が掲げた「日本の暮らしを豊かに」36期連続増収増益の原点

1972年、米国・ロサンゼルス。28歳の青年が、現地の家具量販店の店内で立ち尽くしていた。似鳥昭雄(にとり・あきお)——札幌で小さな家具店を営む創業5年目の経営者だ。目の前に並ぶソファ、ベッド、ダイニングセット。そのどれもが、日本で売られている同等品の3分の1の値段だった。広々とした住宅に、品質の良

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POP吉村(ヨシムラジャパン)|素手で削るエンジンと「世界初の集合マフラー」——零戦整備士が世界を獲った異常な情熱

吉村秀雄は1922年(大正11年)11月10日、福岡県朝倉郡に生まれた。少年時代から機械いじりが好きで、近所の自転車屋に出入りしては部品を分解しては組み立て直していた。「動くものの仕組みを知りたい」——この子供じみた好奇心が、彼の生涯を貫く軸となった。

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アニタ・ロディック(The Body Shop)|葬儀屋に挟まれた一号店、苦情を全国報道に変えた「異常な情熱」

1976年3月27日、英国南海岸の保養地ブライトン。33歳のアニタ・ロディック(Anita Roddick)は、夫が南米横断旅行に出かけている間に家計を支えるため、たった1店舗の小さな化粧品店「The Body Shop」を開業した。資金は銀行から借りた4000ポンド。物件は2軒の葬儀屋に挟まれた場

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鈴木孝之(ウエルシア薬局)|15坪の薬局に化粧品と酒を並べた男、余命宣告の病床から1兆円企業の未来を託した執念

1965年12月、埼玉県春日部市。明治薬科大学を卒業した一人の薬剤師が、わずか15坪の小さな薬局を開いた。男の名は鈴木孝之(すずき・たかゆき)。当時の薬局は処方薬と一般薬を売るだけの「待つ商売」だったが、彼の発想は当時の常識からかけ離れていた。「薬局に化粧品も酒も日用品も並べれば、調剤の待ち時間に楽

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滝崎武光(キーエンス)|2度の倒産を経た尼崎の高卒起業家が築いた営業利益率50%超・時価総額10兆円の異端モデル

1974年、兵庫県尼崎市。2度の起業失敗を経験した29歳の滝崎武光(たきざき・たけみつ)は、3度目の挑戦として「リード電機」を立ち上げた。学歴は兵庫県立尼崎工業高校卒。慶應・東大の名門エリートではなく、町工場が密集する尼崎で電気と向き合い続けた職人の道だ。それから半世紀後の2024年3月期、彼が育て

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ニコラ・テスラ|睡眠2時間で交流電流を証明し「電流戦争」でエジソンに勝った発明家の異常な情熱

1884年、米ニューヨーク。ポケットにわずか4セントと「あるアイデア」が書かれた紙片だけを持って上陸した一人の若き移民がいた。ニコラ・テスラ(Nikola Tesla、1856-1943)——後に「現代の電気文明を発明した男」と称される人物だ。彼が紙に書き留めていたのは、当時の電気工学を根底から塗り

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鳥井信治郎(サントリー創業者)|「やってみなはれ」周囲全員が反対した赤玉ポートワインとウイスキー国産化に賭けた男

1923年(大正12年)、京都府乙訓郡山崎村。鳥井信治郎(とりい・しんじろう、当時44歳)は、湿潤な気候と良質な水に恵まれたこの地で、日本初の本格ウイスキー蒸溜所の建設に取りかかった。総工費は当時の金額で200万円——現在の貨幣価値に換算すれば数十億円規模の途方もない投資だ。社内の役員も、銀行家も、

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豊崎賢一(スシロー)|セントラルキッチン全廃・店内調理に賭けた職人社長の異常な情熱

1984年10月、大阪府豊中市。辻調理師専門学校を卒業したばかりの19歳の青年が、「鯛すし」を母体に立ち上がったばかりの回転寿司「すし太郎」(後の「スシロー」)に職人として加わった。名は豊崎賢一(とよさき・けんいち)。徳島県生まれ、当時の彼はまだ一介の寿司職人に過ぎなかった。しかしこの男が、後に業界

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土屋嘉雄(ベイシアグループ)|妻と2人の衣料店から、M&Aなし自力成長で1兆円グループを築いた群馬の小売王

1958年(昭和33年)、群馬県伊勢崎市。江戸時代から続く埼玉・深谷の「いせや呉服店」を継がず、26歳の土屋嘉雄(つちや・よしお)は妻と二人で衣料品店「いせや」を独立開業した。この小さな店が、後にベイシア(スーパーマーケット)、カインズ(ホームセンター)、ワークマン(作業服)、セーブオン(コンビニ)

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山田昇(ヤマダ電機創業者)の経歴|妻と2人・8坪の電気屋から「死ぬ気でやる」50年で売上1兆円

1973年(昭和48年)、群馬県前橋市。日本ビクター(現JVCケンウッド)に10年勤めた30歳の山田昇(やまだ・のぼる)は、妻と二人で8坪(約26平方メートル)の家電店「ヤマダ電化サービス」を構えた。松下電器産業(現パナソニック)の系列店として街角に小さく灯った看板は、その後50年で、日本の家電量販

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山葉寅楠(ヤマハ)|オルガン1台を箱根越え250km徒歩で運んだ男が築いた「楽器の街・浜松」

1887年(明治20年)夏、静岡県浜松。山葉寅楠(やまは・とらくす、1851-1916)は、自ら完成させたばかりのオルガンを天秤棒で担ぎ、相棒の河合喜三郎と二人で東京を目指して歩き始めた。距離およそ250キロメートル。鉄道網がまだ十分に整っていない時代、最大の難所は箱根の峠だった。木製の重い楽器を山

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山本善政(ハードオフ)|売上半減から「下取り品が売れる」と気づいた瞬間、リユース業を1000店舗に育てた新潟発の挑戦

1993年(平成5年)2月11日、新潟市紫竹山。山本善政(やまもと・よしまさ)は、自ら立ち上げた新業態の1号店「ハードオフ新潟紫竹山店」のオープン日を迎えていた。20年余り守り続けたオーディオ専門店「サウンド北越」がバブル崩壊で売上半減。倒産寸前の中、最後の賭けで挑んだのが「中古オーディオの買取販売

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山内溥(任天堂)|22歳の3代目社長が花札メーカーを世界的ゲーム企業に変えた「ハードはソフトのドレイ」の哲学

1949年、京都。早稲田大学法学部に通っていた22歳の山内溥(やまうち・ひろし)は、祖父・山内積良の急逝の報を受けて大学を中退し、家業である任天堂骨牌(こっぱい)の3代目社長に就任した。花札とトランプを製造する小さな京都の老舗——それが、後に世界のゲーム業界を支配する「任天堂」の出発点だ。就任直後、

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アマンシオ・オルテガ(Zara)|14歳で中退してシャツを配達、リビングの床でミシンを踏み翌日即売した創業者の情熱

1975年5月9日、スペイン北西部の港町アコルーニャのカジェ・フアン・フロレスに、一軒の洋服店がオープンした。本来なら「ゾルバ」という名になるはずだった——近くに同名のバーがあることがわかり、看板業者が手元のアルファベット文字を並べ替えた結果、「ZARA」という名が生まれた。この小さな偶然から始まっ

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ハワード・シュルツ(スターバックス)|貧民街育ち、242回断られた男が「第三の場所」を世界に広げた情熱

1985年、ニューヨーク出身の32歳の男が、コーヒー豆の卸売会社を辞めて独立した。手元には夢のビジネスプランが一枚。彼は242人の投資家を訪ね歩き、そのうち217人に断られた。「アメリカにはイタリアのようなコーヒー文化はない」「そんなにコーヒー1杯に金を払う人間はいない」——拒絶の理由は毎回似たよう

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森稔(森ビル)|地権者400人・17年の交渉を貫いた「都市を変える」異常な情熱

2003年4月25日、東京・六本木に高さ238メートルの森タワーを中心とする巨大複合施設「六本木ヒルズ」が開業した。それまで幅4メートル弱の細い路地に木造家屋が密集し、「東京の恥部」とも呼ばれた地区が、年間4,000万人の来街者を集める都市へと変貌した瞬間だった。開業56日目には来街者1,000万人

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元谷外志雄(アパグループ)|27歳独立・3度の大危機を逆張りで制した「53期連続黒字」の不動産王

「あのとき東京の不動産を全部売っておかなければ、今のアパグループはなかった」——元谷外志雄(もとや としお)は1987年、日本全土が「地価は上がり続ける」という幻想に酔いしれていたまさにその瞬間、自社の東京・大阪の物件を一括売却してキャッシュを手元に引き寄せた。根拠は単純明快だった。「収益還元法」—

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大久保秀夫(フォーバル)|25歳で電電公社の牙城に法律の隙間から参入、自腹33億円で日本の通信を変えた情熱

「法律をよく読んだら、1回線1台だけ電電公社の電話を借りれば、あとは民間で売っていい」——その一文が大久保秀夫(おおくぼ ひでお)の人生を変えた。1980年、25歳。日本中の企業が電電公社から電話機を借り続けることを疑いもしない時代に、大久保は「これは何千万社もの企業を顧客にできるビジネスだ」と確信

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フィル・ナイト(NIKE)|24歳で神戸に直談判、会社名がギリギリまで決まらなかった創業者の情熱

1962年11月、スタンフォード大学でMBAを取得したばかりの24歳の青年が、日本・神戸のオニツカタイガー本社に突然現れた。アポイントはなかった。会議室に通されると、担当者から「どんな会社の代表ですか?」と問われた。その瞬間、青年は子どもの頃に寝室に飾っていた陸上大会の青いリボンを思い出し、とっさに

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ラルフ・ローレン(Polo)|「幅が広すぎる」と全断りされたタイを百貨店の一角で直売し完売させた創業者の情熱

1967年、ニューヨークのタイメーカーで働く28歳の若者が、バイヤーたちに向けてサンプルを広げた。当時のタイは細くシンプルなものが「常識」だった。彼が作ったのは幅広で色鮮やかな、業界の常識を無視した一品だった。バイヤーの答えは揃っていた——「幅が広すぎる。これは売れない」。どの百貨店も、どの小売店も

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レイ・クロック(マクドナルド)|52歳のミキサーセールスマンが「不動産業だ」と見抜いた日

1954年夏、ミルクシェイクミキサーのセールスマンは、1軒のハンバーガーショップが自分の売る機械を8台も注文したという奇妙な事実に気づいた。52歳。糖尿病と関節炎を抱え、売上が年々落ち込む中年のセールスマン——誰もが「人生の下り坂に入った」と見ていた。しかしその謎を解こうとカリフォルニアへ飛んだ一日

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住野敏郎(オートバックス)|米国視察で確信→社員全員反対を押し切り「カー用品専門店」という業態を日本に創出

1974年11月23日、大阪府大東市に小さな店舗が開業した。カーオーディオ、タイヤ、オイル、バッテリー、カー用品を1か所でまとめて買える——当時の日本に存在しなかった業態「カー用品専門店」の誕生である。開業前、社員は口を揃えて言った。「カー用品だけで店は成り立たない」。それでも住野敏郎(すみの とし

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坪内寿夫(来島どっく)|80社以上を蘇らせた「再建請負人」が昭和に刻んだ経営の修羅場

「少数にしたら精鋭になるんや」——坪内寿夫(つぼうち ひさお)がこの言葉を実行に移すとき、組織は震撼した。佐世保重工業の管理職460人を37人へ、230ある課を8つへ。就任からわずか4年で累積赤字200億円超を消滅させた男は、戦後の日本で倒産寸前の企業を80社以上立て直した「再建請負人」として昭和の

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青山五郎(青山商事)|客ゼロの開店から「紙爆弾」作戦で業界日本一を手にした創業者の情熱

1974年、広島県東広島市に日本初の郊外型紳士服店が誕生した。しかし開店から1〜2時間が経過しても、店内に客は一人もいなかった。創業者・青山五郎(1930〜2008年)は原因を調べ、衝撃の事実を知る——地元の人々が、店のオープンをまったく知らなかったのだ。翌週末から青山は動いた。店の半径15kmにあ

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小倉昌男(ヤマト運輸)|業界・官庁・社内全員反対の中で宅急便を強行開始。初日わずか11個

1976年1月20日、東京23区と関東6県の営業所84店舗で、ある新サービスがひっそりと産声を上げた。開始後最初に取扱個数を集計した1月23日の荷物は、わずか11個だった。業界は「個人宅配など採算が合わない」と鼻で笑い、旧運輸省は路線免許を渋り、社内の役員はほぼ全員が反対した。それでも小倉昌男(おぐ

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坂本孝(ブックオフ/俺のイタリアン)|50歳で古本業界を革命し、71歳で「立ち食い高級フレンチ」を生んだ2度の情熱

2011年9月、東京・新橋。16坪の小さな飲食店の前に、開店前から行列ができていた。白いテーブルクロスはない。椅子もない。立ったまま食べる店だ。だが厨房に立つのはミシュランの星付き店で腕を磨いたシェフであり、皿に載るのは本物のフォアグラ、ホタテ貝柱、ポルチーニ茸——高級イタリア料理店なら一皿5,00

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鈴木敏文(セブン-イレブン)|「コンビニでおにぎりは売れない」と猛反対を押し通し、今や年間22億個の巨大商品に

1978年、セブン-イレブンの幹部会議で鈴木敏文がおにぎりの販売を提案すると、会議室に沈黙が流れた。「おにぎりは家で作るものです。コンビニで売れるわけがない」——反対意見は全員一致に近かった。それでも鈴木は首を縦に振らなかった。「日本人が一番好きなのはお米だ。品質のいいものをつくれば、必ず手が伸びる

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安田隆夫(ドン・キホーテ)|6年間の賭け麻雀が生んだ800万円、深夜に聞こえた「営業してるの?」が年商2兆円の原点

1978年、東京・杉並区西荻窪。深夜、照明だけが煌々と灯された18坪の雑貨店に、安田隆夫(やすだ・たかお)は一人でいた。商品の仕分け、値札の貼り付け、棚の整理——日中は一人で接客をこなし、夜が更けてから作業に取り掛かる。蛍光灯の光に照らされた商品が通りにも見えていた。ふと、店の外を歩く通行人が足を止

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江副浩正(リクルート創業者)|東大生で月収400万円、「2位は死だ」で求人情報市場を創った男の情熱

1960年、東京大学の学生が一つの広告営業で月400万円相当のコミッションを手にしていました。江副浩正——のちにリクルートを創業し、「情報の大衆化」という概念で求人情報市場そのものを生み出した男です。社内では「2位は死だ」が合言葉。その異常なまでの競争意識と情報ビジネスへの確信は、やがて売上1兆円企

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星野佳路(星野リゾート代表)|一族から追放→僅差の株主投票で復帰、瀕死の旅館を再生し続ける男の「異常な情熱」

軽井沢の老舗温泉旅館の4代目として生まれた星野佳路は、家業を継ぐことを拒み、アメリカで経営学を学びました。31歳で帰国し社長に就任するも、実父との経営方針の対立で会社を追放されます。2年後、僅差の株主投票でかろうじて復帰。従業員わずか70人、年商5億円の温泉旅館から出発し、倒産寸前の施設を次々と再生

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稲盛和夫のJAL再建|無報酬・3年で再上場した経営哲学

2010年2月、日本航空が経営破綻して1ヶ月も経たない頃、政府は一人の老人に電話をかけた。78歳、臨済宗の僧籍を持ち、経営の第一線から退いて久しかった稲盛和夫——京セラとKDDIを一代で築いた男だ。「無報酬でかまいません。日本航空を救えるなら」。稲盛はそう言って引き受けた。3年足らず後、JALは東証

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川崎千春|ディズニーに25年断られ続けた男が東京ディズニーランドを実現するまで

1983年4月15日、千葉県浦安市に東京ディズニーランドが開園した。初年度の来園者数は約1,036万人。以来40年以上にわたり日本最大のテーマパークとして君臨し、2024年3月期のオリエンタルランドの連結売上高は約6,185億円に達している。この壮大なプロジェクトを構想し、ウォルト・ディズニー社との

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前澤友作|「ファッションはネットで売れない」時代にZOZOTOWNを作った男の異常な確信

2004年、日本のアパレル業界には暗黙の常識があった。「ファッションはネットでは売れない」。試着できない、色味がわからない、ブランドの世界観が伝わらない——理由はいくらでも挙げられた。その常識を、千葉県鳴海の6畳間から輸入CDの通販を始めた元バンドマンが覆すことになる。前澤友作。スタートトゥデイ(現

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松下幸之助(パナソニック)|9歳で丁稚奉公・大量解雇拒否・半日勤務が生んだ「経営の神様」の情熱

1929年の昭和恐慌、松下電器の倉庫は売れない在庫で溢れ返っていた。幹部たちが「従業員を半減するしかない」と訴えると、病床の松下幸之助は言い切った——「松下がきょう終わるんであれば解雇してもええ。けど、わしは将来、松下電器をさらに大きくしようと思うとる。だから、一人といえども解雇したらあかん」。工場

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三木谷浩史と楽天|阪神大震災で「人生は一度きり」と悟った男の異常な情熱

1997年、インターネット通販がまだ「胡散臭いもの」扱いされていた時代。三木谷浩史は、月額5万円の出店料でわずか13店舗を集め、「楽天市場」をオープンした。初月の売上は約32万円。誰もが「うまくいくわけがない」と思った。しかし、この男は3年後にJASDAQ上場を果たし、やがて売上高2兆円超・7万人超

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永守重信(ニデック/日本電産)|プレハブ小屋・4人で創業→70社買収すべて黒字化した「異常な情熱」

1973年7月22日の夜、京都市内の6畳間に4人の男が集まった。ろうそくに火が灯され、28歳の男が宣言した。「会社名は日本電産。永守電産でも京都電産でもない、日本を代表する世界企業になる」——翌朝、彼らが向かったのは桂川沿いのプレハブ小屋。9畳弱の粗末な作業場に、中古のプレス機と旋盤機が置かれている

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澤田秀雄|「航空券だけ売る」で業界の妨害に遭い続けた男がハウステンボスを1年で黒字化した話

1980年、大阪の雑居ビルの一室で、28歳の青年が旅行会社を立ち上げた。資本金500万円、社員2人。売るのは「格安航空券」だけ。当時の旅行業界では、航空券の安売りは「業界秩序を乱す行為」とされ、大手旅行会社や航空会社から激しい妨害を受けた。それでも澤田秀雄は、自分のやり方を一切曲げなかった。HISを

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孫正義(ソフトバンク)|みかん箱演説・16歳の直談判・病床約3,000冊が生んだ「異常な情熱」

1981年9月、24歳の孫正義はみかん箱の上に立ち、アルバイト2人を前に叫んだ。「5年で100億、10年で500億。いずれ売上は豆腐のように1丁(兆)、2丁(兆)と数えるようにする」——あまりの発言に、2人はその場に絶句し、まもなく辞めた。しかしこの男は本気だった。16歳で九州から単身渡米し、高校中

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GREE創業者・田中良和|楽天社員が「しかたなく」起業して時価総額6,000億円を超えた話

2004年2月、楽天株式会社に勤務する一人のエンジニアが、自宅で趣味のプログラミングを始めました。作ったのはSNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)。開発にかかった期間はわずか数日。公開すると1ヶ月でユーザー1万人を突破。本人いわく「しかたなく」会社を作ることにした——。その男の名は田中良和

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角田雄二|スタバ日本1号店を銀座に開いた起業家

1996年8月2日、東京・銀座松屋通りに一軒のコーヒーショップがオープンした。スターバックスコーヒー銀座松屋通り店——北米以外では世界初の出店である。仕掛けたのは、スターバックスコーヒージャパン初代社長・角田雄二。シアトルの小さなコーヒーチェーンに惚れ込み、CEO ハワード・シュルツに直接手紙を書い

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スーパーホテル創業者・上山健二|フロントをなくしたら顧客満足度が日本一になった男の「異常な情熱」

ビジネスホテルに泊まるとき、フロントでの手続き、部屋の鍵の受け渡し、チェックアウト時の精算——これらは「当たり前」のサービスだと思われていました。上山健二はそのすべてを取り払いました。フロントなし、電話なし、鍵は暗証番号。「引き算」しかしていないのに、J.D. パワーの顧客満足度調査で6年連続1位。

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メルカリ山田進太郎|世界一周で「捨てられるモノ」に気づいた男が日本の消費文化を変えた

2013年7月、一つのフリマアプリがApp Storeに登場しました。名前はメルカリ。ラテン語で「商いする」を意味するこのアプリは、リリースからわずか3年で日本のフリマアプリ市場を席巻し、2018年には東証マザーズ(現グロース市場)に上場。時価総額は一時7,000億円を超えました。創業者の山田進太郎

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柳井正(ユニクロ)|商店街の紳士服店から世界3位へ「一勝九敗」23回の失敗が生んだ情熱

山口県宇部市の商店街にある父の紳士服店を継ぎ、「このままでは潰れる」という危機感だけを胸に1984年にユニクロ1号店を開いた男がいる。柳井正、35歳のときだ。その後の軌跡は失敗の連続だった——広島2号店の大赤字、偽造品混入、スポクロ・ファミクロの即撤退、野菜事業の失敗、ロンドン21店舗の6店舗への縮

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アンドリュー・カーネギー|13歳の移民少年がピッツバーグの地図を丸暗記して鉄鋼王になるまで

1848年、13歳のアンドリュー・カーネギーは、産業革命で職を失った父とともにスコットランドからアメリカに渡りました。最初の仕事は綿工場のボビンボーイ。週給1.20ドル、1日12時間、週6日働く日々。そこから電報配達少年としてピッツバーグの全通りと主要人物の顔を丸暗記し、独学でモールス信号を習得。や

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イーロン・マスク(SpaceX・テスラ)|ロケット3連続爆発、全財産を4回目に賭けた男の「異常な情熱」

2008年8月、南太平洋の孤島クワジャリン環礁。イーロン・マスクが創業したSpaceXの小型ロケット「ファルコン1」が、3回目の打ち上げに失敗しました。2006年からの3連続爆発。同時にTeslaも資金ショート寸前。マスクの手元に残った資金は約3,000万ドル——それを2社に分けて投入し、文字通り「

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ハイム・サバン(パワーレンジャー生みの親)|8年間売り込み続けてスーパー戦隊の版権を手にした男

1984年、東京のホテルの部屋でたまたまテレビをつけたハイム・サバンは、画面に映る色とりどりのスーツを着たヒーローたちに釘付けになりました。スーパー戦隊シリーズ——日本では当たり前の子供番組ですが、サバンはそこに「世界を席巻するコンテンツ」を見出します。しかしアメリカに持ち帰ったこのアイデアに、8年

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ハワード・ヒューズ|炎上する機体から生還し、病院のベッドで設計図を描いた男

1946年7月7日、試作偵察機XF-11のテスト飛行中にオイル漏れでプロペラが暴走し、ビバリーヒルズの住宅街に墜落炎上。鎖骨粉砕、肋骨多数骨折、左肺圧壊、全身に三度の火傷——生存確率50%。海兵隊のウィリアム・ダーキン軍曹が炎の中から引きずり出さなければ、確実に死んでいました。しかしハワード・ヒュー

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ジャック・ドーシー|友人の「カード決済できない」の一言から生まれたSquare革命

2008年のクリスマス、セントルイスの実家。Twitterの共同創業者ジャック・ドーシーは、人生の転機にいました。自ら立ち上げたTwitterのCEOを解任されたばかり。次に何をすべきか模索する中、友人のガラス工芸家ジム・マッケルビーが2,000ドルの取引を逃したと嘆きました。理由は——「クレジット

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ジャック・マー|KFC不採用、30連敗の男が自宅アパートで18人と始めたアリババ

中国・杭州のKFCに24人が面接に来ました。23人が採用され、たった1人だけ不採用になった。その1人がジャック・マーです。大学受験に2度落ち、卒業後は30社に応募して全敗。警察にも、ホテルにも断られた。しかし1999年、自宅アパートに18人の仲間を集めて6万ドル(約900万円)で創業した会社——アリ

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ジャン=ポール・ゴルチエ|17歳・未経験でスケッチ400枚をカルダンに送りつけた「恐るべき子供」

1969年、17歳のジャン=ポール・ゴルチエはパリ郊外のアルクイユの自室で、ファッションの正規教育を一切受けないまま、有名デザイナーたちにスケッチを郵送し始めました。「ピエール・カルダンが次のショーで300ルック用意すると聞いたから、僕は400枚描いた」。翌年、18歳の誕生日にカルダンのアシスタント

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ジェフ・ベゾス|20年利益を出さない宣言、ドアを机にした男の「異常な情熱」

1994年、ウォール街のヘッジファンドで30歳にして副社長を務めていたジェフ・ベゾスは、インターネットの利用率が年間2,300%のペースで伸びていることを知りました。上司に「ネットで本を売りたい」と伝えると、「いい仕事がある人間のやることじゃない」と言われた。しかしベゾスはその高給を捨て、妻と中古の

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ジェンスン・フアン|デニーズのブースで創業、「ゼロ億ドル市場」に賭けた男の情熱

1993年、サンノゼのデニーズのブース席で、3人の男が事業計画を練っていました。その一人、ジェンスン・フアンは30歳。彼が立ち上げようとしていたのは、GPU(画像処理装置)という、当時まだ存在しない市場の会社でした。フアン自身がこれを「ゼロ億ドル市場」と呼んでいます——「市場はまだない。でも、必ずで

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ジェリー・ヤン(Yahoo!共同創業者)|リンク集が100万アクセスを突破した日、博士課程をすっぽかした男

1994年、スタンフォード大学の博士課程に在籍する2人の大学院生が、研究そっちのけでウェブサイトのリンク集を作っていました。ジェリー・ヤンとデヴィッド・ファイロ。指導教官がイタリアに長期休暇に出ている間に、2人は学業を放棄してウェブサーフィンに没頭。作成したリンク集「Jerry and David'

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ラリー・エリソン|IBMが見捨てた論文を読んで「俺がやる」——資本金1,200ドルの反逆

1970年代、IBMの研究者エドガー・F・コッドが「リレーショナルデータベース」という革命的な概念を論文にまとめました。しかしIBM自身はこの技術を商用化しなかった。その論文を読んだ一人の男が言いました——「俺がやる」。ラリー・エリソン、当時32歳。養子として育ち、大学を2度中退し、手持ちの資金はわ

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マイケル・デル|大学1年の寮の部屋からPC帝国を築いた19歳の「異常な情熱」

1984年、テキサス大学オースティン校の学生寮の一室。医学部進学コースに在籍する18歳のマイケル・デルは、部屋でPCの組み立てと販売に没頭していました。月商は5万〜8万ドル(約750万〜1,200万円)。両親の収入をすでに超えていたのです。心配した両親がサプライズ訪問をすると、デルはPCパーツの在庫

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ノーラン・ブッシュネル|コイン受けが溢れて「故障」と言われたゲーム機がAtariを生んだ

1972年9月、カリフォルニア州サニーベールのバー「アンディ・キャップス・タバーン」に、1台の試作ゲーム機が設置されました。コイン受けは、牛乳パックのプラスチック容器を逆さにしただけの簡素なもの。数日後、バーのオーナーから電話がかかってきます。「おたくの機械、故障したよ」。エンジニアのアル・アルコー

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ピエール・オミディア(eBay創業者)|壊れたレーザーポインターが証明した「市場は必ずある」

1995年9月、ピエール・オミディアが自宅で立ち上げたオークションサイト「AuctionWeb」で、最初の商品が落札されました。それは壊れたレーザーポインター。価格は14.83ドル。オミディアは驚いて落札者に連絡しました——「壊れていますが、大丈夫ですか?」。返答は、「壊れたレーザーポインターを集め

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リード・ヘイスティングス|「延滞料40ドル」の怒りは作り話だった——Netflixの本当の創業物語

「ビデオの延滞料40ドルに激怒して、定額制のDVDレンタルを思いついた」——Netflixの創業エピソードとして世界中で語られてきたこの話は、実は共同創業者マーク・ランドルフ自身が認めた「便利なフィクション」でした。本当の創業物語は、サンタクルーズからサニーベールへの通勤中の雑談から始まります。ブロ

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ロックフェラー|10セントの帳簿を80年間つけ続けた男が史上最大の富を築いた

1855年、16歳のジョン・D・ロックフェラーは人生初の給料を手にしました。3ヶ月でわずか50ドル——1日あたり約50セント。彼がまずしたことは、10セントで赤い手帳を買うことでした。「Ledger A」と名付けたその帳簿に、収入と支出を1セント単位で記録し始めます。この習慣を97歳で亡くなるまで8

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ヴァンダービルト|運賃をゼロにして競合を白旗させた「提督」の価格戦争

1834年11月、ニューヨークからアルバニーへ向かうハドソン川の蒸気船に、乗客たちが殺到しました。理由は単純です——運賃がタダだったからです。仕掛けたのはコーネリアス・ヴァンダービルト、40歳。3ドルだった運賃を1ドル、50セント、10セントと下げ続け、ついにゼロにしました。船内の食事と飲み物の売上

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ウォルト・ディズニー|スタジオ倒産、床で寝泊まり——それでもアニメを描き続けた男

1923年、21歳のウォルト・ディズニーが設立したアニメスタジオが倒産しました。従業員は全員去り、電気も止まった暗いスタジオの床で寝泊まりし、缶詰の豆を冷たいまま食べて飢えをしのぐ日々。それでも彼はアニメを描き続けました。所持金40ドルとボロボロのスーツケース1つでハリウッド行きの列車に乗り、やがて

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ウォーレン・バフェット|11歳で株を買い、90代でもマクドナルドの朝食を食べる男

1942年、11歳のウォーレン・バフェットは姉のドリスと一緒に、1株38ドル25セントでシティーズ・サービス優先株を3株購入しました。株価は27ドルまで下落し、彼はパニックに陥りながらも40ドルで売却。わずか5ドルの利益。しかしその株はのちに202ドルまで上昇します。11歳の少年はこの日、生涯忘れな

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安藤百福と日清食品|48歳で無一文、96歳まで止まらなかった「異常な情熱」

48歳で全財産を失った男が、自宅の裏庭に建てたたった3坪の小屋にこもり、1年間の試行錯誤の末に世界初のインスタントラーメンを発明した——。日清食品の創業者・安藤百福(あんどう ももふく、1910〜2007)の人生は、挫折と再起の連続です。チキンラーメンを世に出したのが48歳。カップヌードルで世界の食

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江崎グリコ創業者・江崎利一|牡蠣の煮汁に「子どもの未来」を見た男

1882年、佐賀県の貧しい薬種業の家に生まれた江崎利一。19歳で父を亡くし、6人の家族を一身に背負った青年が、有明海の牡蠣の煮汁に「子どもの健康を守る力」を見出し、6年の試行錯誤の末に株式会社江崎グリコを創業。売上高約3,600億円、おもちゃの累計55億個、道頓堀のネオンサインは大阪のランドマーク。

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一瀬邦夫(ペッパーランチ・いきなり!ステーキ創業者)|妻のまかないから「鉄皿ステーキ」を発明した男の情熱

「ステーキは高級レストランで食べるもの」——そんな常識を壊した男がいます。一瀬邦夫、ペッパーランチと「いきなり!ステーキ」の創業者です。高校卒業後にコックの世界に飛び込み、28歳で6坪の店を開業。妻が端肉を鉄皿で焼いて出していたまかない飯をヒントに、「コックがいなくても熱々のステーキを出せる」仕組み

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コメダ珈琲 加藤太郎|「長居するほど歓迎」で全国制覇した創業者の異常な情熱

飲食業界で「回転率」は利益の生命線とされています。客が早く帰るほど儲かる。それが常識でした。ところが、名古屋に生まれた一軒の喫茶店は、その常識を真っ向から否定します。「長居するほど歓迎」——そんな逆張りの哲学で、全国1,000店超のチェーンを築いたのが、コメダ珈琲店の創業者・加藤太郎氏です。米屋の息

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餃子の王将・加藤朝雄|9歳から働いた男が築いた「50円餃子」帝国

全国に700店舗超を展開する「餃子の王将」。その創業者・加藤朝雄(1924〜1993年)は、福岡県飯塚市の貧しい家に生まれ、9歳から家計を助けるために働き始めた人物です。満州で終戦を迎え、帰国後は行商人、進駐軍食堂のコック、薪炭商、小口金融業と職を転々とし、43歳にしてようやく京都・四条大宮に1号店

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CoCo壱番屋 宗次徳二|孤児院育ちの少年が世界最大のカレーチェーンを築くまで

生後まもなく孤児院に預けられ、養父のギャンブル依存で電気も水道もない極貧生活を送った少年がいました。その少年は長じて喫茶店を開き、妻の手作りカレーに惚れ込み、カレーハウスCoCo壱番屋を創業。毎朝4時に出勤し、1日1,000枚以上のお客様アンケートはがきを読み、店の周りを365日掃除し続ける——その

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モスバーガー創業者・櫻田慧|開業資金200万円・2.8坪から始まった「二等地革命」

1972年6月16日、東京都板橋区成増。商店街の外れにある八百屋の倉庫わずか2.8坪を改装した店から、モスバーガーは産声を上げました。開業資金は200万円。その前年、銀座三越の1階に華々しくオープンした日本マクドナルド1号店とは、まさに対照的なスタートです。しかし創業者・櫻田慧(さくらだ さとし)は

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サイゼリヤ正垣泰彦|全焼からの再建と「7割引き」が生んだ異常な情熱

開業からわずか1年9ヶ月で店が全焼。憔悴して帰宅した息子に、母は「よかったね」と言った——。サイゼリヤ創業者・正垣泰彦氏の物語は、そんな常識外れのエピソードから始まります。再建後は自分の給料をゼロにし、毎朝4時に市場へ走って最高の食材を仕入れ、メニューを7割引きにした。すると来客数は1日で40倍に跳

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くら寿司・田中邦彦|「四大添加物不使用」を貫いた創業者の異常な情熱

回転寿司チェーン「くら寿司」を創業した田中邦彦氏。酢メーカーの営業マンから脱サラし、大阪・堺市の小さな寿司店からスタートした男は、ある信念を頑として曲げませんでした。化学調味料・人工甘味料・合成着色料・人工保存料——「四大添加物」の完全不使用です。コストがかかる。仕入れ先が限られる。それでも田中氏は

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ワタミ創業者・渡邉美樹|佐川急便から始まった「異常な情熱」の軌跡

渡邉美樹——佐川急便のセールスドライバーとして1年間で300万円を貯め、24歳で居酒屋のフランチャイズオーナーになった男。そこから居酒屋チェーン「和民」を全国に展開し、さらに介護・教育・農業へと事業を広げた。カンボジアに351校の学校を建て、参議院議員にもなった。一方で「ブラック企業」の代名詞とされ

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ゼンショーとウォルマート|創業者に共通する「異常な情熱」の正体

2026年4月6日、「すき家」を展開するゼンショーホールディングスの創業者・小川賢太郎氏が77歳で亡くなりました。資本金500万円、部下3人で始めた会社を、国内外食企業初の売上高1兆円に育て上げた人物です。大洋の向こうには、アーカンソーの小さな雑貨店から世界最大の小売企業を築いたサム・ウォルトンがい